生徒会室における天使の憂鬱
カサリ、カサリと紙をめくる音が生徒会室を満たしてる。とてもリズムよく響くそれは、みんなの事務処理能力の高さを伺わせた。特に問題に詰まるでもなく、紙音の合間に聞こえてくるカリカリとペンを走らせる音がいっそう心地よさを演出してくる。静かなようで音が絶えることのない時間。
そんなみんなの正確な仕事ぶりのせいなのか、それとも会長席の真後ろにある窓から差し込む温かな午後の日差しのせいなのか――気を抜くと自然と意識がぼぅっと宙を漂い出してくる。
みんなの仕事ぶりを眺めている今もそう。
少しだけまぶたが重くなってきてしまい、慌てて目を見開く。
それでもやっぱり全体的に体が重く感じてしまい、まるで体中を巡る血が何か別の――想像するとぞっとしてしまうけれど、鉛のような――物に変わって流れているような気さえしてくる。
これじゃあまたすぐにまぶたが下がってきちゃうんだろうなと思い、気付かれないようにそっと全身に力を込める。
キシ――と、作りの良い会長の椅子が少しだけ軋みをあげる。
年代を感じさせるこの椅子は、時折こうした悲鳴じみた声をあげる。みんなもその音には慣れたもので、わざわざ気にしたりはしないから私のこの行動を見咎める子はいないだろう。
身体の芯から末端へと血を走らせるイメージ。ぎゅっと圧縮された筋肉と神経が、力を抜くと同時に疲労にも似た心地よい感覚を隅々にまで走らせた。
(最近走ってないなぁ……)
伸びとも云えないような伸びをしたせいか眠気は飛んだけれど、代わりにそうせざるを得なかった自分の体調が、身体の鈍りを感じさせた。
生徒会に入ってからは忙しくてあまり走れていない。陸上をしていた身からすれば疲労が溜まってくると無性に走りたくなってしまう。
「疲れているのに走るなんて」って沙世ちゃんには云われたりもするけれど、走りたくなってしまうものはしょうがない。それに、疲れてはいるけれど、どちらかというとストレスに近いのかなとも思う。だからこそストレス発散のために走りたくなるのかもしれない。
生徒会役員のみんなと仕事をする現状に不満はないし、大きな仕事が片付いた時の充足感は何物にも代え難いものがある。けれど、やはり生徒会長という肩書きは少なからず私にストレスを与えているのかなとも思う。
名前だけのお飾り会長だけれど――だからこそ余計に肩肘張ってしまっている部分もあるのかな。周りのみんなみたいにすごい才能を持っているわけじゃないけれど、せめてミスはしないように。いつもそんなことを思っているから、色々と溜まってきてしまっているのかも。
疲れているのかな……。自信があるという訳ではないけれど、普段だったらここまで後ろ向きに考え込むこともないのに。
「――ふぁ……」
伸びをして脱力したままぼーっと考えていたせいだろうか。気が抜けてしまったようで、ふと空いた心の隙を狙ったように欠伸が出てしまった。
慌てて口を塞いでみんなの様子を伺う。
カサリ、カサリ。
変わらず室内は事務処理が生み出す音で満ちている。
――良かった。さくらちゃんも耶也子ちゃんも下を向いて一心不乱に書類を片付けている。どうやらみんな集中しているようで、気付かれなかったみたい。
何気なさを装いながら、最後の一人である沙世ちゃんを見遣ると――
「………………」
バッチリと目が合ってしまった。
こっちを向いているわけじゃないけれど――横目っていうのかな――切れ長な目の端でこちらを見ていた。
その瞳はとても理知的であまり温度を感じさせない。加えて、仕事の正確さや規則への拘りも相まって「機械のような副会長」と云われていることを思いだしてしまった。
う〜ん……確かに沙世ちゃんは少し堅い部分があるけど、そんな機械だなんて云われるほど冷血な子でもないのに。とっても気が利いて、優しい子なんだけれど。
と、思いつつも欠伸を見咎められたせいか、その視線を受けている今は流石に私でも居心地が悪かった。
片手を顔の前に持ってきて、目をぎゅっとして静かに「ごめんね」と伝える。
どうやら正確に伝わってくれたようで、沙世ちゃんは軽く嘆息しつつ、自分の仕事へと戻った。
悪戯を「しょうがないわね、今回だけよ」と見逃された子供みたいな安堵を覚えつつ、自分の方もそっと息を吐く。
どうもやっぱり疲れが溜まっているらしい。
普段はこんなあからさまな失態はしないように心掛けて居るのにな――。
ちょっとだけ沈みだした心を堰き止めてくれたのは、さくらちゃんの声だった。
「あー! もーだめだー!! 遊ぼうややぴょん!!」
「ややぴょん云うな。それに仕事が溜まってるんだから遊んでる暇なんてないぞつっちー」
「じゃあ息抜きにしよう! よーし購買へ行くぞーややぴょん!」
「云ったそばからぴょん云うな!」
「ちょっと、静かにしなさいよ二人とも」
さっきまでの静けさが一転、さくらちゃんと耶也子ちゃんのいつものノリ――ひとによっては漫才と称しているらしい――が場の空気を明るいものへと変えた。
二人の名前が土屋さくらと立花耶也子――さくら≠ニたちばな≠ゥら、よく両者をセットで「右近の橘、左近の桜」なんて称する人もいる。いつも二人一緒にいて、なんやかやと騒ぎ立てるさくらちゃんに、嫌々ながらも結局付き合ってしまう耶也子ちゃんの様子から自然とその名称がついていたらしい。そんな二人は見ていて微笑ましくなってくる。どうも耶也子ちゃんはそのことに不服なようだけれど。
「いやいやー。そうは云っても副会長! これは結構な量ですからねー。やっぱりここらでひとつ休憩は必要だと思うわけですよ」
「はいはい。解りました。じゃあ少し休憩にしましょうか。いいわよね、初音?」
「ふぇっ! あ、そ、そうね! えっと、じゃあ少し休憩にしましょうか」
どうも今日は本当にダメな日みたい。突然振られた話に反応出来ず、妙ちくりんな返事をしてしまった。
「ねえ、大丈夫? 疲れているんじゃないかしら。少し保健室にでも行って休んできたら?」
「ううん。大丈夫大丈夫! ちょっとだけぼーっとしちゃっただけだから。あはは、なんだかこの席ってあったかくってつい」
「そう……? ならいいんだけど。無理はしないでちょうだいね」
どこか納得しきっていない表情ではあったけど、沙世ちゃんは一旦話を納めてくれた。申し訳ない気持ちはあるものの、流石にこの程度で仕事を休んでしまうわけにはいかない。耶也子ちゃんも云っていたけれど、結構な量の仕事が溜まっているのだから。
「つっちーではないが、私もこれは結構な量だとは思う」
「おおー!? ややぴょんもそう思うよね! そうでしょうそうでしょう。ここらでひとつ、また誰かお助けマンを呼んできちゃう?
皆瀬初音会長、鳥橘沙世子副会長のネームバリューは伊達じゃないですからねー。ホイホイっとお好きなだけ連れてこれますよー?」
「もうっ、さくら。その言葉遣いはどうにかならないの。お助けマンとかホイホイとか……はぁ」
「あは。まぁまぁ沙世ちゃん。えっとねさくらちゃん、私にネームバリューがあるとは思えないけど、そろそろテストも近いですし、そんな時に手伝ってもらうのも悪いから」
「あ〜、そうですよね。そう云えばテストが近いんでしたっけ」
人数が増えてだいぶ運営が楽になった生徒会ではあるけれど、時折こうしてどかんと仕事が入る時期というものはある。いつもはさくらちゃんとかがお手伝いしてくれる人を呼んできてくれたりするのだけど、今回は時期があまり良くなかった。だからこそ、さっきまでのように私がぼーっとしてちゃいけなかったのだと改めて思う。こうしているだけでみんなに負担を掛けてしまっているんだもの。
少し気合いを入れ直したところで、何やら思案顔だったさくらちゃんが「おおっ」と云って立ち上がる。何か良いことを思いついたようで、その表情はどこか誇らしげとも見ることができそうだ。
「エルダー呼びましょうエルダー! 特に千早お姉さま! 前にも一回手伝ってもらっていますし、尋常じゃない飲み込みの速さでしたよね。ややぴょんすら軽く追い抜いていくあの処理能力はおかしいでしょー! それに、聞けば前のテストは学年一位だったとかっ。もう試験勉強なんて必要無いような人じゃないですか! 我ながらなんてグッドアイディア!!」
「ダメよ、さくら」
息巻いて出した考えを、沙世ちゃんが一言。
「エルダーはエルダーでお忙しいでしょうからね」
すっぱりと切り捨てた沙世ちゃん相手に、さくらちゃんは「えぇー!」と自分のアイディアが否定されたことに不満げだ。確かにエルダーは忙しい身の上だから、手伝ってもらうのは気が引けるけど。
それにしても沙世ちゃんらしくない断り方かなと思う。
ダメだと云った沙世ちゃんの口調は――解る人にしか解らないらしいのだけど――いつもよりも少し冷たい、突き放すような感じがした。それに、断るにしても普段なら色々と筋道立てて理詰めでいきそうなものなのに。
確かにエルダーは往々にして忙しい人ではあるけれど、そんなに年中多忙というわけではなかったはず。特にテストが近いこの時期に引っ張りだこというのも考えづらいかなとも思う。その時期にこっちに引っ張ってきてしまうことに確かに抵抗はあるけれど、どうにも沙世ちゃんらしからぬ理由付けのような気がしてならない。
普段から「忙しいでしょう=vというような曖昧な言葉を使う子じゃないから余計に違和感を感じた。
「そうだぞつっちー。それに、勉強しなくても良いなんてこっちが決めることじゃない。学力を維持するために勉強したいと思っているかもしれないだろう」
「いやぁ。いいアイディアだと思ったんだけど。まぁそっかー。確かに敵は連れてきたくないですよね〜」
敵……? 千早ちゃんは何か悪いことでもしたんだろうか。そんな話は聞いたことがないけど。どういうことだろうと思って
沙世ちゃんの方を見ると、ちょうどピクリとこめかみが一瞬だけ動いたのが見えた。けれどそれだけで、特に何を云うでもなく席を立って部屋の隅へと歩いていく。生徒会室に用意されているティーセットでさっさと紅茶を作り始めてしまったようだ。
「どういう意味なんだつっちー?」
「おやー。気付いていないとはややぴょんもまだまだだな。教えて欲しかったら購買でジュースを買ってくるのだ」
「それは断る」
「と、年上の云うことを断るとは……!」
「残念だったなつっちー。私はもう誕生日を迎えたから今は同い年だ」
「せ、先輩の云うことを断るとは……!」
「云い直すのは格好悪いぞ」
「あは。やっぱり仲がいいね、二人は」
「もっちろん!」「そんなことはない」
「あはは」
カリカリと真剣に仕事に取り組む生徒会も良いけれど、こうして楽しくわいわいと過ごす生徒会もやっぱり好きだなと思う。
「お? 誕生日? 良いことを思いついた! 耳を貸すんだややぴょん」
「いい加減ぴょん云うのをやめろつっちー」
本当に、良いメンバーに恵まれたなと思う。お姉さまから引き継いだ時は不安でいっぱいだった。今でも責任がのし掛かってくることもあるけれど、みんなのおかげでなんとか乗り切っていけている。
「うむ。それは良い。副会長にも後で相談しよう」
「ふぅ、あの二人は何をまた騒いでいるのかしら。――はい、初音」
「ありがとう。沙世ちゃん」
カチャリ、と静かな音を立てて琥珀色を湛えたティーカップが目の前に置かれる。立ち上る香気がじわっと身体の中に染み込んでいくよう。
「……ふぅ。おいしい」
「そう。それなら良かったわ。ハーブティーにしといたから少しは疲れが取れるといいわね」
「あはは……。ごめんね、心配かけちゃったみたい」
「一人で頑張りすぎなのよ。もうちょっと力抜いて、みんなを頼りなさい」
「もう充分頼ってるから、これ以上は負担になっちゃうよ」
「はぁ……。もう、貴女って人は……」
どこか諦めを含んだ表情で嘆息されてしまった。けれど、本当にこれ以上みんなを頼るわけにはいかない。このメンバーの中では一番私の能力が低いのだから、せめて自分が抱えている仕事くらいは自分でこなさないと。
いちいちそうやって思い直さないといけないところが、お飾り会長なんだなと思うけれど。
「沙世子お姉さまー。お耳に入れたいことがー!」
「聞こえているわよ。何よ一体」
ハーブティーをまた一口含む。すっきりとした口当たりと、爽やかな香りがお腹の奥から広がっていく。さっきの中途半端な伸びでは取れなかった鈍い疲れが薄らいでいく。身体の奥底から熱とともに巡る心地よい感覚。
さて、この紅茶を飲み終わったらもうひと仕事頑張ろう。
みんなより出来が悪い分、もっともっと頑張らないと。