騎士の摘む花

「これは、私が綿密な取材の結果得た情報であり、信憑性はかなり高いお話です。怖い話と云えど、そこらの怪談、奇談と同じというわけじゃありません」

 ゆっくりと噛み締め、皆に云い聞かせるように陽向ちゃんの声が朗々と響き渡る。

「はつね……」

「だ、大丈夫ですよ優雨ちゃん。本当にあったか解らない話なんですから……」

 まだ本題も始まっていないというのに、早くも恐怖に怯え出したのは優雨。それを安心させようと声を掛ける初音さんも、しかし言葉とは裏腹に怯えの色が伺える。

 陽向ちゃんは信憑性という言葉に少しだけ力を込めていた。

 これは本当にあった話ですよ、だから怖い話なんですよ――そう、前もって云い含めるためのスパイスとしての単語。

 下手に「これは本当にあった話です」という話し方をするよりもよっぽど恐怖心を煽る言葉だなと思う。

「まぁあったかは解らないけれど、あったかもしれないのよね?」

 どこか楽しげな響きを伴わせて、香織理さんが確認をとる――と云うよりも、どちらかと云えば二人の恐怖心を更に煽っているようにしか聞こえない。

 香織理さんも、陽向ちゃんの言葉遣いの意図に気付いたのだろう。

「ちょっと、やめてよね香織理さん〜」

 怯える二人に向けて放ったのだろうけれど、過敏になっているのか、香織理さんの言葉に、薫子さんまでも怯え出した。

「ほんとに、あったの?」

「いえ、あの……あったかも、って云ってるだけで本当にあったとは……」

「もうー! どっちなのよっ。あったの? なかったの!?」

 陽向ちゃんの放った信憑性という言葉。

 そのどっちつかずの言葉に居心地が悪いのか、早くも薫子さんは落ち着きを無くしている。

 殊更に怖がらせようとして下手に断定的な言葉を使えば反発を生む。

 信じたくないという思いが強ければ、それだけ相手の心は強張る。

 完全な肯定でも否定でもなく、曖昧な部分を残した微妙な肯定の言葉は受け手に判断を任せてしまう反面、各自で勝手に悪い想像を膨らませることもある。

 あたかも見たくない物が眼前にあるのに、薄目を開けて目を覆った指先をも少し開いてしまうような、怖い物見たさの心に出来た隙間。その意識を作り出す言葉。

 物書きを目指しているだけあって、うまい言葉選びだったなと少しばかり感心してしまう。

「今から二十数年前、この櫻館にはとあるエルダーが住んでいました。例に洩れず、そのエルダーも大変な人気者だったようで、多くの後輩に慕われていたそうです。そして、夏のある日、一人の少女が愛しさのあまりそのエルダーを訪ねるところから事件は始まったのです」

『ごくり……』

 これから始まる話の行く末に不安感が高まったのか。

 そして幾ばくかの――陽向ちゃんの狙い通りに――怖いもの見たさという名の好奇心が顔を覗かせたのか、何人かの唾を飲み込む音が聞こえた。

 部屋の中央にはロウソクが一本。カーテンを締め切り、電灯も全て消され、辺りは暗闇に包まれている。ゆらゆらと揺らめくその頼りない灯火だけが唯一の光源だった。

 置かれたテーブルの上さえ満足に照らし切れないような儚い光がより一層、この部屋に満ちる空気を異質な物へと変じさせているようだ。

 古来より、闇と火は魔術・呪術の類とは切っても切れぬ関係であるように、室内に再現されたそれは、充分に異界へと通じそうな雰囲気を醸し出していた。

 まるで、本当に“出て”きてしまいそうな程に。

 ロウソクが乗った丸テーブルを囲むように櫻館の面々が円を描きながら座っている。

 僕の右隣から、薫子さん、香織理さん、陽向ちゃん、優雨、初音さん、そして左隣に史というような座席だった。

 それほど大きくはないテーブルだけれど、申し訳程度にしか闇を照らしていない――文字通り吹けば消えてしまいそうな――淡い光のみというこの状況では、各人の表情は伺い知れるものではない。

 でも、それぞれが発する雰囲気でなんとなくの心理状況が伝わってくる。

 薫子さんはさきほどからそわそわとした様子から緊張。

 初音さんと優雨の姉妹は気分を紛らわすかのような言葉数の多さがそれ以上の感情――不安……かな――を顕している。

 香織理さんは……どこか面白がっているようだ。微かに照らされた口元が、ほんのりと上向きの弧を描いている。

 まぁ……表情は見えずとも、香織理さんが怖がっている場面というのは想像出来ないかな。

 左隣に控えている史は相変わらずというか、この場面においても何を考えているのかは解らない。

 真っ暗闇の中で一つのテーブルを囲み、それぞれに違うことを思い描いているなんていう光景は、平常であればなんのために集まっているのか解らないような、統一感のない風景だろう。

 けれど、そんな中にあって、ただ一つ共通していることは全員が全員、陽向ちゃんのする話に引き込まれているという点だ。

 僅かな息遣いと、身動ぎする度に発する衣擦れの音しか漂わぬ静寂は、思いの他皆の集中力を掻き立てているようだ。そのピンと張り詰めた空気が、周囲をある種独特の雰囲気へと変質させていった。

 まるで中性ヨーロッパで行われていたという魔女達のサバトのように宗教じみた意識の収束。

 そんな中にあって、臆することなく――むしろ、このような雰囲気こそが望みであったと喜ぶかのように――尚も続く陽向ちゃんの語りはだんだんと熱を帯びていく。

「その少女は、自身が重病であることも構わず、ただ逢いたいという一心でこの櫻館を……エルダーの部屋を訪ねました。しかし、運の悪いことにちょうどそのエルダーは帰省中であり、不在だったのです」

 陽向ちゃんの言葉は、思い出しながら紡いでいるのかお世辞にも流暢とは云えず、ところどころ妙なタメがある。

 けれど、それが却って云いづらい――言葉に出すことも憚られるような恐ろしい――話をしているのだと、皆の恐怖心を煽ることに一役買っていた。

 つっかえつっかえ話す陽向ちゃんの話をまとめると、その少女はエルダーの部屋の中で病状が悪化し、人がいないことも災いしてクローゼットの中で息を引き取ったのだという。

 なぜクローゼットの中なのかは疑問だが、ひと目見ようと無理を押して行き着いた先で、望みの結果が得られぬままこの世を去ることになった無念はいかばかりだったろう。

 これだけでも充分に心動かされる話ではあるけれど、これは悲しいお話ではない。怖い話として語られているのだ。そのクライマックスは――

「少女の無念が残り続けているのか、それ以来、その部屋の家具を動かそうとする度に、原因不明の物音や振動がするようになったのです。そして――」

 ここが肝であると伝えるように、一拍置き――皆もその雰囲気を察して、自然とこれから訪れるだろう恐怖に対して身構えた。

「そのクローゼットの中から聞こえるのです。『お姉さま……お姉さま……お姉さまはどこ!?』」

『きゃあっ!!』

 一際大きく発せられた最後の言葉に悲鳴が上がる。

 ――と、見計らったかのようなタイミングで部屋の電気が点灯する。

 いつの間に移動していたのか、部屋の入り口にいた史が楚々とした佇まいで立っていた。

 雰囲気を壊さぬよう音も無く移動し、バッチリのタイミングで電気を点けるのは、侍女として結構なことだけれど、もう少しくらい場を楽しんでもいいんじゃないかなぁ。

 それよりも。

 気になるのは僕の右腕にある慣れない感触。

 目をぎゅっと瞑り、恐怖に怯えるように薄い胸を押しつけながら――こんなことを云ったら殴られそうだけれど――薫子さんが抱きついていた。

「か、薫子さん……?」

「うぅぅ〜〜〜」

 脅かさないように少し声を潜ませて掛けたとは云え、全く届く様子がない。駄目だ。完全に恐怖で余裕を無くしていて、聞く耳を持っていない。

 仕方がないと、今度は先ほどよりも強めに声を掛けてみる。

「ちょっと。薫子さん? 話は終わりましたし、明かりも点きましたから大丈夫ですよ」

「でもでも、千早〜〜」

「まったくもう。しょうのない子ね。こ〜ら、か・お・る・こ」

 薫子さんの隣にいた香織理さんが、あやすように頭を撫でて落ち着かせていた。

 と、普通ならばそう思う場面と仕草であるのに、何故か香織理さんの瞳は笑っていて――決して怯える薫子さんが可愛らしく見えての優しい目つきという様子ではない――自分のことではないはずなのに、嫌な予感がした。

「もう、そんなに千早といちゃつきたいのかしら?」

「ふぇ……? …………あっ!」

 ようやく状況を飲み込んだのか、慌てたように身を離し、過剰とも思えるくらいに後ずさる薫子さん。

 正気に戻ったのは喜ばしいことではあるけれど、飛び退くように離れられると、それはそれでちょっと傷付く。

「あ、いや! これは違うのよ!?」

「あ〜ら、何が違うのかしら? 恐がりのエルダーさん?」

「うぅ〜〜、もう! 香織理さんの意地悪……」

「ま、薫子に抱きつかれて千早も満更じゃなさそうだし、いいのではなくて?」

「そこでこっちに振りますか、香織理さん……」

「ち、千早っ!?」

「いえ、あの。何とも思ってませんから安心して下さい」

「…………それはそれでなんとなくフクザツ」

「どうしろと云うのですか」

 まったく。思わぬ飛び火だ。抱きつかれて、しかも香織理さんが同じ場所にいる時点で予想して然るべきだったのかもしれないけれど。

 当の香織理さんは「ふふふ」と、ご満悦の笑みだ。あれはどう見ても楽しいことを見つけた悪い大人の笑いだ!

(薫子さん……、どうやら一番与えてはいけない人にご馳走を与えてしまったようですよ……)

 そんな僕の心配と不安がない混ぜになった視線になど気付くはずもなく、元の位置に戻った薫子さんは――意識的か無意識にかは解らないけれど――ちょこんと僕の袖の端を掴んでいる。

 騎士の君として全校生徒の憧れである彼女のこんな小動物じみた仕草を見ることになるなんて。人によっては黄色い声をあげそうな仕草だけれど、あまり喧伝出来るような光景でもなさそうだな。

 それにしても、どうして食後のお茶会だったはずがこんな流れになったんだか。

 エルダー選挙のお疲れ様会として寮生全員でのお茶会という名目が、どう転がったのか、陽向ちゃんの仕入れた怖い話を聞く会にいつの間にか変貌していた。

 時刻は、午後九時。まだまだ丑三つ時まで程遠いけれど、陽向ちゃんのお話は充分すぎる程の恐怖を振りまいたようだった。

 薫子さんだけに限らず、初音さんや優雨も二人で抱き合って震えているし。あの様子だと今日は姉妹で一緒に寝るのかな。

 そんな風に暢気に考えていたけれど、二次災害とも云うべき事態が数時間後に訪れるなんて、ある程度さっきの陽向ちゃんが語った話の流れを予想出来ていた僕にも思い付けるはずが無かった。

 先日の選挙でエルダーになんてなってしまったものだから――その選挙が切欠だったのか、陽向ちゃんの仕入れた怖い話はエルダーにまつわるものだった――少し気合いを入れて勉強をしていたせいで、だいぶ就寝時間が遅くなってしまった。

 そろそろ寝ようかと思っていたところでトントンと、ドアを叩く音がした。

(こんな遅くにだれだろう? 史が何か伝え忘れでもしたのかな?)

 そう思って扉を開くと、予想外の人物――薫子さんが何やら切羽詰まった表情で立っていた。

「おや、薫子さん。こんな時間に珍しいですね」

「ち、千早! ちょっと付いてきて!!」

「え? どうしたんです、こんな夜中に」

「いいから早く!!」

「いえ、付いて行くのは構いませんが、どちらへですか」

「うぅ〜〜……トイレ」

 ぼそりと。顔どころか首まで真っ赤に染めながら、とんでもないことを云い出した。

「え、えぇ!?」

「(ちょっと! 声が大きいってば! 皆起きてきちゃうでしょ!!)」

「(あ、いや、それはそうですが。一人で行けばいいでしょう?)」

「(……怖い話聞いてから行けなくなったぁ……)」

 大きな声を出した後でもう遅いかとも思ったけれど、少しだけ声のトーンを落として当然の疑問を投げ掛けた。

 その問いに答える薫子さんは、普段の凛々しい姿からは想像も出来ないくらいの情けない声を出しながら僕の袖を掴んでくる。

 余程我慢しているのか、それとも羞恥からか、その握りは思っていた以上に強く、ぷるぷると小刻みに震えている。

「あぁ……。気持ちは解らないでも無いですが、だったらどうして僕なんです? 香織理さん辺りに頼めばいいでしょうに。まだ起きてらっしゃるかは微妙なところですが、頼めばきいてくれるでしょう」

「香織理さんに云ったら絶対に事ある毎にネタにされ続けるでしょ!」

「そ、それは…………ありえそうで怖いですね。にやにやと笑っていましたし」

「でしょう!? それに、あなた男でしょ! 怖がる女の子放っておくってどうなのよ!」

「え、いや、ですから男ですよ?」

「………………。――――っ!?」

 やっと自分が何を云っているのか理解したのか、まさに絶句という言葉が相応しい程に薫子さんは声と顔色を失っていた。

 普通に考えて、女性が男性をトイレには誘わないでしょうに。

 よっぽど余裕が無くなっていたのか、はたまた言葉では僕を男と云いつつも、男とは認識していなかったのか――どうも、後者のような気もするけれど、それだけは無いと思いたい。

「うぅ〜〜あぁ〜〜……でもダメ! もう限界!! とりあえず来て!!」

 粗相と羞恥との壮絶な戦いの結果は、僅かながら粗相をするよりも羞恥心を我慢するという方に軍配が上がったらしい。

 なぜそこで、一人で恐怖と戦うという三つ巴の戦いにならなかったのか、不思議でしょうがない。

 けれど、流石に僕もここで変にごねて薫子さんが一生モノのトラウマを背負ってしまうような場面には出遭いたくなんてないし、しょうがないと嘆息しつつ付いて行くことにした。

 ギシリギシリと、木造の床が軋みを上げる。

 夜もだいぶ更けたこの時間は、当然ながら明かりもなく、先の見通せぬこの空間にいると確かにあの話の後ではよからぬ想像が働いてしまうだろう。

 正確な時刻は見てこなかったけれど、もしかしたら丑三つ時だったりするのかもしれない。

 廊下の先に漂う吸い込まれそうな程の濃密な闇は、築百年を越える建物自体の年輪も併さって不気味な雰囲気を醸し出していて、本当に何かが出てきそうな雰囲気だった。

 無音の世界に広がるギシリギシリという、どこか悲鳴じみた音の反響を聞きながら手を繋いで黙々と歩く。

 急ぎたいはずなのに、音が鳴るのが嫌なのか、振動が自分の体に伝わってしまうのが嫌なのか、殊更にゆっくりとした歩み。

 遅々として進まぬ歩みにふと、廊下に設えられた窓から外を見る。

 掃除のいき届いた指紋ひとつない綺麗なガラス窓から差し込む月明かりは頼りない。その弱く、蒼々と底冷えのする光は幻想的と見えなくもないのに、今日あった話のせいで一転して異界へと迷い込んだかのような錯覚をさせてくる。

 蒼く、薄い光の幕が満ちる世界――。

 そんな中の行軍。繋いだ掌から伝わる熱だけが彼女の支えなのだろう。ギシリと音が鳴る度に、「ひっ」という小さな呼気を発してぎゅっと握りが強くなる。

 その行動と、熱を通して伝わってくる彼女の心細さが不意に僕の気持ちをざわつかせた。

 とても儚く、いつも見る、活力に満ちた薫子さんとは違った一面――強いだけじゃなくて、女の子らしい一面もあるのだと強く意識する。

(安心させてあげよう)

 自然とそんな考えが浮かび、先ほどよりも少しだけ、自分からの握りを強めた。ゆっくりと、柔らかく。微かな震えを帯びた、その手を。騎士の名からはほど遠く感じる、ほっそりとした女性の手を。

 そのおかげかは解らないけれど、びくびくと落ち着きのなかった薫子さんの挙動も幾分落ち着いてきたようだ。

 その様子に、ふっと笑みを零してしまった。

(なんだか、不思議な気分だな)

 女性としてここにいるのに、男性としての役割を果たしたような、そんな分かち難い気分。

 さっきも薫子さんの言動から、自分が男なのか女なのか、どちらで見られているか解らない状態だったのに。

 それでも、それほど嫌な気分ではなくて、女性といることで安心出来るなら女性で、男性といることで落ち着くのなら男性で――どっち付かずな僕であっても、隣にいる可愛らしい女性の不安を取り除くことが出来るのだと、嬉しさが込み上げてくる。

 少しだけ今の境遇を肯定出来たような気がして、冷えた夜の空気とは逆にほんのりと熱を帯びた自分の心を意識した。

「じゃあ千早、ここで待ってて! 絶対どこか行っちゃやだよ!? 扉の処に居てよね!」

 どんなにおっかなびっくり歩いてはいても、所詮は寮内。数分もしないうちに――そんなに時間をかけていたら、薫子さんの我慢も本当の限界がくるだろうし――トイレの前に着いた。

「いや、むしろここに居てもいいんでしょうか……」

「だ、だって怖いじゃない……」

「でも、聞こえてしまいますよ?」

「――っ!」

 今夜の薫子さんは本当に頭が回らないらしい。本日何度目の絶句だろう。

 こんなにもしんと静まりかえった夜なのだから、例え扉越しの小さな音であろうと伝わってしまうのは明白だろう。

 だいたい、いちいち指摘する僕の方だって恥ずかしくないわけじゃないのに。云わせないで欲しい……。

「み、耳塞いでて!! 絶対、何があっても塞いでて!!」

「はぁ……解りましたよ」

 もうここまで来たら薫子さんの要求は全て飲むしかないだろう。

 どうせ、「なら先に部屋へ戻ってますよ」と云ったところで、その意見は通りはしないのだ。仕方なく、両の耳をきつく塞ぎ、扉の前に座り込む。

 ただ待っていても色々と想像してしまいそうで、ぼんやりと思考を巡らせながら意識を別のところへ遣る。

 薫子さん――。初めは、ずいぶんと勇ましい女性だなと思った。

 真っ向からナンパ野郎と対峙するような女性がいるなんて。

 聖應に入ってからは、ちょっとガサツだったり、寝坊助だったり色々な面を知ったけれど、芯の通った真っ直ぐな性格は最初に抱いたイメージと寸分のブレも無かった。

 ……そこに僕は憧れを抱いている、のかもしれない。

 僕の持ち得なかった、折れぬ芯を持ちながらも周囲と楽しく過ごせる、眩い性格。

「――、――!」

 不思議と、すんなりと自分の中の純粋な気持ちが出てきた。

 僕も今日は普通の精神状態では無いのかもしれないな、なんて思いながら「ふぅ」と息を洩らす。その吐息が合図になったのか、短い空想から現実へと意識が戻る。

 七月に入ったとは云え、お尻に伝わる床の温度は冷めたくて、少しだけ身震いがした。

「ち――! ――はや!!」

 身震いで本格的に目が――寝てはいなかったのだから頭の方かな――醒めて、急に現状の異質さを意識する。

 成り立てほやほやのエルダー同士が人目を憚ってこんなことをしているなんて。きっと投票してくれた人達を幻滅させてしまうんだろうなと、そう思っていると――

 ドン!! と扉が物凄い勢いで開かれた。必然、その前に陣取っていた僕も吹き飛び、今度は尻ではなく顔から床の温度を感じる羽目になった。

「いたた……。何事ですか薫子さん」

 抗議混じりに少し固い声音で呼びかける。

「もう! 返事くらいしてよ、千早。居なくなったかと思ったじゃない!」

「耳を塞げと云ったのは薫子さんでしょう。どうしろと云うんですか」

「耳は塞いでて。でも声を掛けたら返事して」

「そんな無茶な……」

 なんて暴論。自分勝手。傍若無人。

 人間、切羽詰まるとここまで自分本位な振る舞いが可能となるのか。

 ……結局、耳を塞ぎながらも、僕が軽く歌を口ずさんで存在をアピールすることで落ち着いた。

 なんというか、確かに真っ直ぐな人だとは思うけど、そこまで自分の欲求に真っ直ぐにならなくてもいいでしょう?

 まったく、こんな調子で大丈夫なんだろうか。

 先が思い遣られる相方さんだなと思い知らされる初夏の夜だった。

 翌日。

 皆で揃って櫻並木の道を登校していると――

「ごきげんよう、薫子お姉さま」

「ごきげんよう」

「今日も良い天気ですね、騎士の君」

「そうね、今日も健やかにお過ごしなさい」

 昨日の醜態が幻であったかのように、優雅に挨拶を交わす薫子さんがいる。元々、騎士の君として人気のあった彼女だけれど、エルダーになって更に拍車がかかったように思う。

 昨夜の傍若無人っぷりが嘘のような佇まい。

 そのギャップに感じ入っていたのが顔に出ていたのか、すっと距離を狭めて僕に耳打ちをしてきた。

「ちょっと。何か変なこと考えてるんじゃない?」

「いいえ。ごくごく普通のことを考えていただけです」

「それって何よ。ちょっとオシエナサイ」

「櫻が綺麗だなあと思いまして」

「嘘つくなー! もうとっくに葉桜も終わってるわよ!」

「ええ。だから葉桜の散った様も趣があって良いものですよね」

 白々しく、いっそ清々しい程に嘘を吐く。

「……相変わらず性格の悪いエルダーめ」

「ふふ。褒め言葉として受け取っておきますね」

 キラキラと、少しずつ強まってきた陽光が新緑の葉を照らしている。葉桜の季節は終わってしまったけれど、芽吹きだした他の木々の濃い葉の輝きは力強い夏の到来を今か今かと待ちわびているようで、自然と見ているこちらの気分も昂まってくる。

 それは、まるでこれからの生活を暗示しているかのようだ。

 ふわり、と並木道を軽やかな風が通り過ぎる。

 空中をたゆたう桜の花びらのごとく、ゆったりとした春の季節は終わりを告げ、活力に満ちた暑い夏を運ぶ枝葉のそよぎ。

 青葉のごとく濃密な出来事がこれから起こる――そんな予感が涼やかな風と共に胸の内を駆け抜けた。

 在学期間は全体の四分の一を消化した程度。

 まだまだこれから楽しいことが待ち受けているのだろう。どんよりとした不安の雲に覆われていた最初の頃が今はもう懐かしい。

 素敵な友人に囲まれたこの乙女の園で、出来ることなら楽しい想い出をたくさん作ろう。

 ――と、気分を新たにしていると、薫子さんがまたぞろ顔を寄せてきてこう云った。

「(……昨日のことは絶対誰にも云わないでよね!)」

 頬を赤らめながら囁く薫子さんを見て、ころころと変わるそんな彼女の豊かな感情を見て、不覚にも可愛いなんて思ってしまった。

 結局、どこまで行っても彼女は騎士の君やエルダーという存在以前に、一人の女の子なんだなと、遅まきながら思い知る。

 先ほど想いを馳せたこれからの数ヶ月を共に歩むのは、もう一人のエルダーなんかじゃなくて、とても魅力に満ちた女の子なんだ。

 そう思うと、昨日の傍若無人っぷりも可愛らしいものだったなと思う。

 そんな彼女と過ごすこれから――。

 とても楽しい学院生活になりそうだと、自然と緩む頬を意識しながら――

「ふふ。どうしましょう?」

 思いっ切り優雅な微笑みを浮かべて、手始めに薫子さんの困り顔を思い出の一ページに加えることにした。