Gift


第二章   君の背中

 ドン、ドン、と朝早くから空に向かって号砲が響き渡っていた。家の中にいても腹の底まで響いてくるような振動に、それなりに大きな大会なんだという実感が湧いてくる。

 秀英の体育祭ではこんなにも盛大な号砲は鳴り響かなかったし、せいぜいが各種競技のスタートに使用されるスターターピストル程度だった。

 一つの学校と一つの市とでは規模として比べるべくもないのだけれど、今まで――自分の住んでいる市の大会でありながら――あまり興味が無かったから、それほど大きなものであるという認識は持っていなかった。

「んんーっ! 晴れてよかったねえ。秋晴れ秋晴れ。運動するにはちょうどいいくらいの気温だよね」

 家を出て市営の運動場に向かう道すがら、絵里香は軽く伸びをしている。

「張り切るのは結構ですが、ちゃんと準備運動はしないとだめですからね、絵里香さん」
「わかってるってばー。心配性だなああざみんは。私も涼も怪我の怖さは見てきてるからね。その辺りはきちんとしますよん。そんなに気をつかいすぎてるとストレスでまーた背が縮んじゃうぞ? ね?」

「えーりーかーさーん!! あなたという人は、久しぶりに会った時にまで人のことをちっちゃい言わないと気が済まないんですか!」

「鈴村。絵里香のこれはいつものことなんだから、軽く聞き流しておいた方がいい。けれど……そうだな。最後の言葉には僕も同意はしかねるが、準備運動については絵里香と同意見だ。しっかりやることで怪我をする可能性が低くなることは絵里香だって知っているわけだし、きちんとやるさ」

「そうですか。神谷くんがそう言うのなら安心ですね」

 僕の言葉に安堵したようで、鈴村は柔らかな笑みを零した。秀英の頃から仲の良い間柄であると同時に、唯一の良心と言って差し支えないほどに大人びた彼女――鈴村あざみは、けれど言動に反して非常に可愛らしい容姿をしている。

 僕の胸ほどしかない非常に小柄な体型を、絵里香にいじられては怒るという遣り取りは学生の頃からのお馴染みの光景となっていた。

 聞き流しておいた方がいいとは言ったけれど、これはこれで二人のコミュニケーションのうちの一つなのかもしれないなと思う。口で言うほど鈴村も怒っているわけではないし、絵里香も本気でけなしているわけではないということは、言い合った後の――今、二人が浮かべあっている笑顔を見れば判るだろう。

 学生時代を彷彿とさせるような仲睦まじい二人を眺めていると、つんつん――頬を指先で突く感触。

 誰だ、と思ったのも一瞬で、周囲にいる人物の中でそんなことをする人間というのも限られている。ただ、そんなことなど考えなくとも、先程の指の感触だけで理解することは容易かった。

 ひどく華奢で、すらりとした白磁の指の感触は、とても柔らかで気持ちがよく――それだけで誰がやったことなのかは、見ずとも知れた。

「ふふー」

 頬を突く指の先を辿ると、そこには想像通りの――けれど、想像の中の彼女よりも更に綺麗な、本当に綺麗な顔が悪戯な笑みと共に待ち構えていた。

「涼くん、ひっかかっちゃった」

 そう言って楽しそうに笑う姿は、秀英時代とほとんど変わりがない。姫宮瑠璃という完成された少女にとって、時間というものはあまり意味のあるものではないのではないか――そんなばかげた想像すら真剣に検討してしまいそうなほど、整った美を備えている。

「絵里香と鈴村の遣り取りもそうだが、姫宮も飽きないな、その悪戯」

「だって――」

 ――楽しいよ? 言わずとも笑顔と共にほんの少しだけ傾げた顔から、言外の意味を感じ取る。

「まあ、姫宮が楽しいのならいいさ」

 僕の返答に満足したのか、くすくすと笑う。

「そういえば、島津とかはまだ来てないのか?」

「島津くんと日下部くんは先に行って場所取りしていますよ。良い席を取るんだと息巻いていましたから。主に日下部くんが、ですが」

「トシくん、すごい張り切ってたけど、ジュンくんはやれやれって感じだったもんね」

 その光景はなんとなく想像出来てしまう辺りが、日下部の日下部たる由縁だろう。

「それにしても、どうして市民運動会に出ることになったんですか? ここの運動会は比較的ご年配の方々の参加率の方が高かったような気がしますが」

「そうなの?」

 僕の頬から指を離した姫宮が、鈴村へと問いかけた。

「この運動会は子供枠こそありますが、神谷くんや絵里香さんのような世代は珍しいと思います」

「そうらしいな。実は先に決まっていた夫婦が怪我で出場出来なくなって、町内会長から僕らに話が来たらしい」

「そうなのよ。なんだか練習頑張りすぎちゃったみたいでさ、お父さんの方が疲労骨折でぽっきりいっちゃったらしいよ? それで奥さんの方も面倒を見るとかで出場辞退。ま、もっとも夫婦リレーなんだから片方出られなくなった時点でもう片方も出られなくなるんだけどさ」

 あの日、電話で受けた内容をかいつまんで二人に話す。

「ねえねえ、エリちゃん。夫婦リレーってどういう競技なの?」

「んんー? 夫婦でバトンを繋ぐだけよん? 確か四組の夫婦で一チームだったかなー。一人辺り一○○メートルの計八○○メートルリレーだよ。あとはそうだなあ……夫婦間でバトンを繋ぐんだけど、奥さんの方が後に走るっていうのも割と珍しいルールなのかな」

「そうなんだあ。じゃあじゃあ、エリちゃんは涼くんからバトンをもらうんだね」

「そう! 涼ー。一位で来なかったら夜のご奉仕抜きだからねー」

「え、え、え、絵里香さん!!」

「やーん! あざみんが怒ってるー。なぁにを想像しちゃったのかなー」

「え、えっと、……何でもない、です、よ?」

 どうしてそこで僕の方に伺うような目を向けてくるんだろうか。この遣り取りも懐かしいと言えば懐かしいもので――そう感じているということは以前にもやっていたというのに、鈴村の対応は今も初心なままだ。

 見た目が非常に幼い鈴村の前で、先の絵里香のような発言を聞かせるというのも、罪悪感が募ってしまって居たたまれない。

 だからと言って、正直にそんなことを言おうものなら絵里香からロリコンだの変態だのと言われ、また鈴村も怒って――と堂々巡りとなるだろうことは明白だったので、ここは気付かなかった振りでもしておくのが良いだろう。

「えっと……経緯は分かりましたが、よく出場の話がきたものですね。先ほども言いましたが、ご年配の方々が多い大会ですから、普通は代役も同じような方々に話がいくものだと思いますが」

 鈴村もこれ以上絵里香とじゃれあっているのも時間の無駄だと悟ったのだろう。話を戻し、僕らに声が掛かったいきさつを聞いてきた。

「そうだな……。それは、目立ってたからじゃないのか? 絵里香が」

「それはしょうがないわよねー。こーんなに美人な人妻ですから? 話題になっちゃうのも分かるなーっていうか、当然っていうか」

「人妻……」

 なぜか姫宮がぽつりと独り言を漏らしてはほんのりと頬を染めている。

「おやおや〜、なーにを赤くなってんのよこのエロ子は。まあでもエロいよねえ、人妻っていう単語。そりゃあ瑠璃も欲情するのも頷けるわ。でもあんた、そんな単語でいちいちお股濡らしてたら大人向けな小説とか読めないわよ?」

「そんなの読まないもん。それに欲情もしてないもん。してないからね、涼くん?」

 だから、なんで僕の方を見るんだ。鈴村といい姫宮といい、弁明をするのは構わないけれど、その度に僕の方を見てくる意図がわからない。

「まあ絵里香が美人なのは否定しないが……」

「うんうん、流石はダーリン」

「否定、しないんだ……」

「この……万年バカップルは……」

 上機嫌の絵里香、と何故か微妙に納得のいってなさそうな二人を尻目に続ける。
「僕は昔から陸上をやっていたからな。前からこの辺に住んでいる人ならば、そのことを知らないって人はさほどいないだろうし――」

 昔から千夏と二人で走っていて余計に目立っていた、と言うのは止めておいた。今、この場面でそんな情報に意味はないし、千夏という言葉が空気を変に変えてしまうことも怖かった。みんな優しい――優しいから気を使ってしまうのではないかと、そんな心地さと弱腰の混じった感情。

 僕が陸上をやっていたということを知っているというのは、千夏のことをも知っているということだ。

 むしろ逆であるかもしれない。千夏のことを知っているからこそ、いつも傍にいた僕のことも知られていた。大人しくて目立たない僕と、活発で人当たりの良かった千夏。どちらの方が覚えが良いかなんて、火を見るよりも明らかだろう。

 そして、千夏を知っているということは、あの事故のことも――。

 あの事故からもう幾年が過ぎ、絵里香と共にこの街に帰ってきた。

 しかも夫婦として、だ。

 時間を持て余した人――主に主婦を中心として話は広まっていったのだろう。

 今まで千夏のことを気にしていただろう周囲もこれ幸い――という言い方は露骨に過ぎるかもしれないけれど――にと、話を振ってきたのだと思う。

 噂の二人。千夏に良く似た絵里香。しかも夫婦。話題性は申し分ないだろうし、リレーという性質上、若くて運動が出来る者を引っ張ってきた方が都合も良い。

 真相は、恐らくそんなところだろう。けれど、バカ正直にそこまで話す必要性も無い。嘘を吐く必要もないので、話しても差し障りのないように言葉を選びつつ、説明した。

「絵里香は人当たりが良いからな。近所でも人気者なんだ。それに若い夫婦とくれば、リレーに引っ張り出してくるのに理由としては充分だろう」

「確かに、そう言われればそうですよね」

「エリちゃんも涼くんも足早いもんね。そんな二人なら頼みたくなるよね」

 二人とも妙に素直に納得していた。

 柔らかな笑みを浮かべてしきりに頷く二人を見て――ああ、こんな僕の浅知恵などこの聡明な二人にはお見通しだったようだ。それとも、顔に出てしまっていたのだろうか。

 恐らく、両方だろうという結論に行き着く。

 僕は、まだまだこの二人――姫宮瑠璃と、鈴村あざみという友人たちを見くびっていたようだ。

 二人とも確かに気を使ってくれたのだろう。けれど、そこで変に意識するでもなく、ただただ受け入れてくれている。何も言わずとも察し、許容し、微笑んでくれている。

 本当に、バカだな。僕は。

 そんな思いと共に、嬉しさが溢れてくのも自覚していた。

 こんなにも優しい人達と出逢えて良かった。友人となれて良かった、と。

 変に意識してしまっていたのは自分の方かと――自省する心がほんのりと痛みを訴えてきたけれど、これは、嬉しい痛みだ。

 こんなにも素敵な友人達だと改めて知ることが出来たからこその、痛み。

 だからその巡り合わせに、人と人とが繋がれた奇跡に、暗い顔は似合わない。

 ありったけの感謝を込めて、二人に向けて微笑んだ。

 感情が表に出やすいと言われる僕だけれど、だったら、この気持ちは素直に顔に出てくれているはずだから――。

 四人でわいわいと騒がしくしながら移動し、市営の運動場に着いたところで場所取りをしていた島津と日下部の二人と合流した。

「遅いぞー、お前ら! もう待ちくたびれたっつーの」

「いやいやいや、席取りご苦労ご苦労ー。トシのことだからどうせ女の子に声かけて爆死してたんでしょーけど」

「うるせー! 声かける女の子みんなジュンの方にしか興味持たない、この悲しみが絵里香にわかるか!!」

 そのまま、レジャーシートに日下部が崩れ落ちる。

「いやあわからないなあ。なんせ私ってばもうダーリンいるし?」

「うわぁ、付き合い始めた頃からすごいとは思ってたけど、未だにそれ続いてるんだ。涼も絵里香も飽きないね」

 悲しみに暮れる日下部と、呆れ顔を浮かべる島津の二人。会うのは久しぶりだったけれど、変わらない二人の姿に懐かしさが込み上げてくる。

「お疲れ様です、島津くん、日下部くん。代わりますので、周りを見てきたらいかがですか? せっかくこっちまで来たのに、ずっとここにいるというのももったいないでしょう」
「あざみちゃんが残るなら、私も残るよ」

「よぉーし、じゃあ久しぶりに女子会議でもやるかー! さー、男共は散った散ったー!」

 気を利かせた鈴村に、女子二人が付き添う。女子会議というものに、なぜか言い知れない不安を覚えるけれど、この流れになってしまってはこの場にいることも出来ないだろう。

 それに、久しぶりに会った島津と日下部とも話をしておきたかった。女子会議に対抗、というわけではないけれど、男同士で行動すれば自然と積もる話も出てくるに違いない。

「わかった。それじゃあ屋台でも覗いてくる。何か欲しいものは?」

 まだお昼には早いけれどみんな今日は朝早くから行動していただろうし、そろそろ小腹も空いてくる頃だろうと思い、周囲を散策するついでに食べ物を買ってくることにした。

 絵里香は元気良く「やきそばー!」と言い、姫宮は「わたあめ、かな」、鈴村は控えめに「ではりんご飴を……」と、三者三様の返答がきた。それぞれに個性が出ている選択で、けれどスタンダードなものばかりなので、買い損ねるようなこともないだろう。

 三人に返事をして、島津と日下部と共に買い出しへと出かけた。

 男三人連れだって市営運動場の通りを歩いて行く。道の両脇には祭りのように屋台が建ち並び、僕らと同じく少し早い休憩を入れようという客で賑わっている。これからだんだんと混んで行くのだろうけれど、商魂たくましい屋台の店員達は、声も大きく集客に精を出していた。

 本格的に混んでくる前にと目的の食べ物を早々に買い、見るとはなしに周囲に視線を走らせながら元来た道を歩いて行く。

「そういえば、二人共よくこっちに来られたな。たまたま休みだったのか?」

 気軽に来ようと思えるような距離でもない。来てくれたことは純粋に嬉しいと思うけれど、無理をさせてしまったのではないかと少しだけ心配になった。

「いや、まあこっちに来るのはいいんだけどね。割と代わり映えのない毎日過ごしてるから、こういうイベント事は大歓迎」

「絵里香のやつ、すごい張り切って呼びかけてたみたいだったからなあ。来ないと殺すとまで言われたよ、俺。まあ暇だったからいいんだけどさ」

「トシはいつでも暇だもんね」

「うるせー!」

 殊更に張り切っているような雰囲気はないけれど、かと言って乗り気でなければこんな田舎の方までは来ないだろう。気負うでもなく、自然と誘われるままに友人に会いにきた――そんな様子が見て取れて良い友人達だと改めて思う。

「……遠いところを、あと絵里香の強引さに、すまない。それと、ありがとう」

「気にすんなって。俺達と涼ちゃんの仲じゃねーか。これでお前らにまで誘われなくなったら俺どうしたらいいかわかんねーよ」

「じゃあ次からはトシ抜きで集まろうか」

「おいおいおい、洒落にならないからやめてくれよ!」

「考えておくさ」

「ちょっとちょっと涼ちゃん!? そこは否定しといてくれよ!」

 どれだけ会っていなくてもすぐにこの雰囲気が出てくる。その事実が純粋に嬉しくて自然に笑みが零れた。

「それよりさ、涼。絵里香とはどうなの? 順調な夫婦生活送れてる?」

 日下部をいじることにもう飽きたのか、島津が不意にそんなことを尋ねてきた。

「順調だ」

「かーっ。いいよなぁ涼は。絵里香はまあ、いいとして。彩ちゃんも一緒だもんなあ。世の中不公平だよなあ」

「絵里香がいいというのはどういう意味なんだ、日下部」

「ちょ、怖い! 怖いってば涼ちゃん! ごめんごめん、特に意味はない! 睨むな睨むな」

「本当に変わらないなあ。盲目というかなんというか。絵里香も涼も、秀英の時からよくそのいちゃつきぶりが続くと思うよ。普通、君らくらいの長さを一緒に過ごせばもう少し落ち着いたり、ちょっと冷めてきたりするもんだと思うんだけどね」

 日下部をひと睨みした横から、島津の呆れ混じりの声が届く。

「そんなに変なことか? 別に、普通だろう」

「そこで普通と言っちゃえるところが涼のすごいところだと思うよ」

 苦笑する島津を脇に、そんなに変なことかだろうかと考える。

 魅力的な人が恋人――今はもう妻だけれど――であれば、飽きたり冷めたりはしないだろう。

 長く付き合ったからと言って、その人の魅力がなくなるわけじゃない。変化したり、自分が慣れてしまうということはあるのかもしれないけれど、今のところそんな気持ちになったりはしていない。

 それに、僕は絵里香の全てを好きになったんだ。どんなに年月が経とうが、魅力が変わろうが、それが全て神谷絵里香という存在なのだから。

「ああ。そんなに深く考え込まないでよ。ちょっとした疑問っていうだけだから。普通、とは言ったけど、それが正解ってわけでもないし、それこそ色恋沙汰なんて人それぞれだからね。まあ、ちょっとした嫉妬みたいなものだって思っておいてよ」

「嫉妬? 島津が、か?」

「ジュンが嫉妬とかだったら、俺なんか涼を殺してるレベルだって!」

「まあまあ。色んな女の人相手にしてるとさ、時々涼達みたいな一途な付き合い方に憧れたりもするんだよね」

 島津の言葉に「そういうものか」とそっけなく返事をしたけれど、深く詮索されなかったことが良かったのか「そういうこと」と、島津の方も微笑むだけだった。

「そうそう、涼はよく走る気になったよね。秀英の時って結構走ることを避けてた節があったと思うんだけど」

「あ! それ、俺も気になってたんだよなー」

「それは――なんでだろうな……」

「おいおい、俺らが聞いてるってのに」

 日下部の言うことももっともだ。けれど、本当になんでなのだろう。

 絵里香に運動会で走ると言われたあの日。確かに嫌な気持ちにはならなかった。嫌、というのは適切ではないかもしれない。元々走ること自体に嫌悪のような感情は無いのだから、恐らく千夏が関係しているのだろうけれど。

 秀英にいた頃は理由がはっきりしていた。

 千夏が死んでしまって――何も出来なかった自分が不甲斐なかった。そんな自分が千夏と共に築いてきたと言っても過言ではない、走る≠ニいう行為を続ける意味を見失っていたのだから。

 千夏の居ないこの世界で走ることに、どんな意味があるのだろうかと――。

 彼女が消えた喪失感自体も相まって、あの頃は本当に走ることに熱意をもてないでいた。

 それが今は――正確に言うならば、絵里香から話をもらったあの時からの僕の心はどうだろう。

 やっぱり、わからなかった。

 もしかしたら答えはあるのかもしれないけれど、今すぐ島津達に答えられるような明確な言葉は浮かんではこなかった。

 下手な言葉で誤魔化すようなことはしたくない、という思いも少なからずあったのだろう。そうして口から出た僕の言葉はやっぱり「わからない」だった。

 気分を害した様子もなく、二人共「そっか。まあ人の心なんて自分でもわからない時があるからなあ」と納得してくれた。

 それからは本当にたわいのない――日下部が絡むとどうしようもないとも言えるような――会話をしながら、束の間の男三人の気楽な時間を過ごしながら女性陣の元へと戻った。

 笑い合いながら進む道中も、合流したその後も、「なぜ自分は走ることにしたのか」という疑問が心の隅に残り続けていた。

 一体僕は、この後にどういう気持ちで走るのだろう。そして絵里香は、どうしてリレーの話を承諾したのだろう。

 薄霧のようにもやもやとした感覚が、走る直前まで僕の心に絡まって離れなかった。

「さってとー! 行ってきますかね」

 パンパンと、軽く自らの頬を叩いて気合いを入れる絵里香。

 花形種目であるリレーは、どの運動会でも最後に行われると相場が決まっているようで、僕らが出場するそれも例に漏れず一番最後にプログラムされていた。

「エリちゃん、涼くんも、頑張ってね」

「お二人とも、無理はしないで下さい」

「大丈夫さ。準備運動もしっかりやったし、調子もそれほど悪くない」

 当事者よりも気合いの入った姫宮と鈴村の声援を受け、入場口へと向かう。

 早めの昼食を済まし、きちんと胃を落ち着けてから準備運動も入念に行った。この辺りは午前中での鈴村との遣り取りもあったことだし、手を抜くようなこともしなかった。

 流石にあんな遣り取りをした後で故障しました、なんていうことになったら笑い話にもならない。

 島津と日下部の二人は、写真を撮ると言って少し先に別れたが、どの辺りだろうか。軽くトラックの周囲を見回してみるが、あまりの人の多さに見つけることは容易ではなさそうに思われ、すぐに諦めた。気にしたところで競技中に手を振ることすら出来ないのだから。

「涼、緊張してる?」

「どうだろうな……でも、少しわくわくはしているかもしれない」

 目の前に並んでいる絵里香が、少し身体を捻りながらこちらを向き、顔を上げて問いかけてくる。僕もそうだけれど、特に気負った様子も無く、同じくどこかわくわくとした雰囲気すら感じさせる笑顔。

 釣り気味の猫眼に闘志を漂わせ、ふふんと、可愛らしい口元が自信に満ちたように柔らかな弧を描いている。

「涼――」

 その愛らしい笑顔は一瞬鳴りを潜め、真剣味を増した眼が僕の瞳を捉えてくる。

 吸い込まれそうなほどに透明なその両目に惹き付けられ、自然と次の言葉を待っていた。

 何か、こちらの気持ちを探るような――いや、探るというよりは、既に見透かしているかのような視線。

 そして、ふっと相好を崩しまたいつもの笑顔に戻る。

「楽しもうね」

 結局、絵里香は多くを語らず――大部分を先の視線に込めていたのであろうことは容易に想像がつき――ただ一言を投げ掛けてきた。

「ああ、そうだな。楽しんで走れればいい」

 視線の意味を理解し切ることは叶わず、純粋に投げ掛けられた言葉に対して返答するしかなかった。

 ――パァン!

 スターターピストルの号砲が鳴り響き、一瞬の後には割れんばかりの大歓声に辺りは包まれた。

 リレーが、始まった。

 第一走者が熾烈なポジション争いと共に、我先にと加速していく。

 夫婦リレーとはいえ全力を尽くす姿に老若は関係なく、その迫力はただただ会場中を魅了している。僕も自然と、引き込まれていた。

 第一走者は依然激しい順位争いをしながら、その勝負は次の走者へと託された。
 夫から妻へ。

 もつれた順位争いは、五○メートルを過ぎた辺りで安定し、全員が最内周をひた走る一本の列車のようになった。残り五○メートルを走るうちに、各所で小競り合いが散発するも、概ね順位は変わらず、次の走者へ。

 ここで、一組がバトンを落とした。

 夫婦間でバトンパスの練習は出来ても、違う家庭の者との練習はなかなかしづらいものがある。それはどこのチームも同じようで、すんなりとバトンパスが行われているところは少ない。そうであれば、取り落としてしまうチームが出てきても不思議はないだろう。

 これが、リレーの面白いところだった。どんなに練習を重ねたオリンピックの選手達でさえミスをしてしまい、大本命チームが一気に最下位になることもある。彼らの場合は極限を追求しすぎたがための紙一重のミスであるのだから、厳密には同じというわけではないのだけれど、競技としての面白さという観点で言えばそう大差はないだろう。

(……面白いな)

 純粋にそう思った。何も考えず、見たままに感じたままに動いた心の模様。その模様が描く、沸々とした衝動。

 この競技の中に自分も混じり、この後走るのだと思うと興奮が湧き上がってきて止まらない。

 昂ぶる心と、形容し難い感情に振り回されそうになっている間にも、バトンは次から次へと繋がっていく。気付けば自分の一つ前の走者に渡ったところだった。

 四○代くらいの女性がひた走っている。順位は残念ながら下位争いをしているところだけれど、ここまでパスミスなどもなく致命的な位置では無かった。

 ドクン――あの人からパスを受け取るのだということを意識した途端に、走るという行為が現実感を帯びてくる。

 先ほどまでの興奮とは桁違いの熱量で、全身が満たされていくのがわかった。

 ――早く走りたい。

 その思いが強烈な衝動となって僕の心の内を占めていく。

 なぜそんな衝動が出てくるのかと考えようとして、すぐに無意味なことだと知れた。


 もう、答えは出ていたじゃないか。

 島津や日下部と話した時、走ること自体は嫌いじゃないと思った。

 このリレーを見て、面白いと思った。

 自分がその中に入ることを――走るということに、胸が熱くなった。

 なんだ。結局僕は、好きなんじゃないか。走ることが。全力を尽くして足を前に進めることが、風の壁を突き破り、その先へ進むことが。
 どうしようもなく、好きなんだ。

 ――たとえ、千夏がいなかったとしても。

 幼い頃から一緒に走り、ひたすらその背中を追いかけ、僕の目標だった千夏。彼女が突然いなくなり、僕は陸上において追いかけるべき目標を失った。

 生来の優柔不断と、大きな喪失感と、様々なことが絡み合い、どうしようもなく前に進めなかった。

 けれど、確かに走ることは楽しかった。

 最初は千夏ありきでの陸上だったけれど、それでも自分のタイムが縮んでいくことに喜びを覚えていたんだ。

 楽しさを感じられなければ、人は何かに打ち込み続けることは出来ない。

 突き詰めれば、純粋な思いは「走ることが好きだ」という一言に集約されているのだろう。

「涼――楽しもうね」

 絵里香の言葉が思い出される。

 きっと彼女は見透かしていたのだろう。恐らく、ずっと昔から。

 彼女も僕と同じく走ることに喜びを感じ――そして、誰よりも僕のことを解ってくれる人だから。

 走ることは楽しいことだという、この感覚を再び教えてくれるために、絵里香はリレーの話を相談もなく勝手に受けたんだろう。

 相談されれば僕は、走るということに身構えてしまっていたはずだから。一気に話を進めてしまうことで、考えさせず、純粋に感じ取らせようとしたのだろうか。

 そこまで絵里香が深く考えていたかは判らないけれど、きっと大きく外れてはいないだろう。

 前の走者は、既に目前まで来ていた。

「――楽しむさ。全力で」

 力強い笑みを浮かべているだろう、自分の顔を意識する。

 バトンを持ってきた女性はペースがガクンと落ちていた。無理をせず、バトンをしっかりと受け取ることに集中し、ほとんど助走をせずに待つ。

 そして、「お願いね、若いお父さん」という女性の掛け声に頷き、走り出す。

 絵里香。このバトンを、全力で君の元へ届けるから――。

 トラックをひた走る。余力も作戦もなく、ただひたすらに。

 ピッチを徐々に上げ、足の回転を素早く、ローからハイへ。ギアがどんどんと上がり、加速していく。

 流れる世界とは逆に、思考は引き延ばされ、空気の壁へと飛び込む。

 加速の区間を終え、四○メートルほど走ったところでストライドを伸ばす。大きく、しなやかに。残りの全速の区間はほとんど思考というものをしていなかった。

 身体が、本能が、思考に割く力を奪っていく。

 速く、速く、もっと速く――。

 ただそれだけを追い求めた身体の動き。

 白く輝く思考の中で、がむしゃらに空気の壁を突き破っていく。

 あたかも、身体がひとつの風の弾丸となるように。

「――ッハァ!!」

 たまらなくなって、ひとつ大きく息を吐いた。

 薄れた思考が再び戻り、世界が色を持ち始める。

 ワァ――ッ、という歓声が聞こえたのはその時だった。

 何事かと思ったけれど、周囲を見回している余裕なんてない。ただ前を見るだけで精一杯だ。

「涼ーっ! あと一人だー! ぶっちぎれぇー!!」

 不思議とはっきりと耳に届いたその声が、絵里香のものだと自然と認識していた。そのおかげか、急速に思考が巡り出す。

 そこで気付いた。

 前にはもう、一人しかいない。

 下位争いをしていたはずが、他に走者はいなかった。抜き去ったのか、何かアクシデントでもあったのか。わからないけれど、僕がやることはひとつだけだった。

 あと、一人。

 しかし、相手も速かった。リレーのメンバーの中では最も若い僕らだったけれど、前を走る人もかなり若い。恐らく、三十歳前後だろう彼は、終盤にきた今もなお、綺麗なフォームを保っていてなかなか距離を縮めることが出来ない。

 その走り方から、何かしらのスポーツ経験者であろうことが伺えた。

 決して絶望的なスピードではない。けれど、あまりにも残りの距離が足らなすぎた。せめて、二○○メートル走であれば――。

 そう考えて、「くっ」と笑った。実際には笑いともつかないようなうめき声になってしまっていたけれど。それでも、楽しくなって笑っていた。

 もともと競技で他人と競うより自己と向き合う走りの方が好きだったけれど、こういうのも捨てたもんじゃない。それは、これがリレーという種目だからだろうか。

 ――二○○メートル走であれば?

 つまり、残り一○○メートルあればいいんだろう?

 それならば、僕ら≠フ勝ちだ。

「涼!!」

 顔を上げて、目線をしっかりと上げて、前を見据える。

 そこには、最愛の人が待っていた。

 シャツにスパッツという軽装の中に、豹のように引き締まった筋肉を内包した均整の取れた身体。

 半身でこちらを見つめるその顔はどこか不敵で、自信に満ちていて、そして何より信頼の情を載せていた。

 左手は大きくこちらに向かって突き出され、その手にバトンが収まる時を待ち続けている。

 その姿を視界に捉えて、もう一度笑った。絵里香も、「遅いぞ、ばか」と語りかけるかのように笑った。

 一○○メートル近くを走ってきて、鉛のように重かったはずの身体が軽くなる。まるで絵里香という星に引き寄せられているかのような感覚。

 テイクオーバーゾーンに入った瞬間、絵里香が走り出した。

 弾かれた、という呼び方が似合いそうなほどの俊敏なスタートダッシュ。

(あの……ばか! 自分の瞬発力わかってるのか……!)

 猛然と走り去る絵里香の背中を追いかける。二○メートル以内にバトンを渡さなければ失格になってしまうというのに。

 天性のスプリンターを思わせる、力強くも軽やかな走りで加速を始めた絵里香を必死に追いかける。その後ろ姿を見て思った。

 絵里香の走りは千夏によく似ている。

 しなやかな筋肉を理想的な身体の動きで活かし、凄まじい加速をみせる走り。

 いつも追いかけ、追いつけなかった背中。いつになれば追いつけるのかと、疑問に思いながらも、それすらも楽しかったあの頃。けれどその背中は永遠に届かない場所へいってしまった。

 そして今、その千夏とそっくりな走りをみせる絵里香の背中を追いかけている。

 けれど、千夏と絵里香は違うんだ。

 千夏とリレーをやったことはないし、もうすることも出来ないけれど。

 絵里香はすぐそこにいる。絵里香の背中は、追いつくことが出来る。

 それは、千夏の代わりなんかじゃなくて、千夏との間にあったものとは別の未来――。

 走り、追いかけた千夏との関係とは違う、絵里香との関係。走り、時に並び、待ってくれている。手を伸ばせば大事な大事な人の背中がそこにある。

 これが、僕らが手に入れた関係。

 今、最も僕にとって大切な人の背中――その華奢でありながら頼もしい背中が目前に迫っていた。

 一歩、一歩と近づきバトンを前へと突き出す。

 三メートル、二メートル、一メートル。

 まるで磁石のようにバトンが絵里香の手へと渡る。すとん、と在るべき場所へと戻るかのように、吸い込まれていく。

 背中に、追いついた――。

 パシン――!

 手をたたき合ったかのような快音が響き、僕から絵里香へ。

 瞬間、テイクオーバーゾーンを抜け出した絵里香のピッチが跳ね上がった。

 これ以上ないというくらいの理想的なバトンパス。充分な加速を得た絵里香は、速くもストライドを伸ばし始めていた。

「――ッハァ、ハァ!!」

 呼吸の仕方を忘れていたかのように、ぎこちない息遣い。吐くことは出来るのに、うまく吸うことが出来ず激しくむせてしまう。

 相変わらず、ペースも何もあったもんじゃない。そういえば「無茶苦茶だ」なんて言われたこともあったか、と懐かしい思い出が頭をよぎる。

 その時と変わらず褒められるような走り方ではなかったけれど、僕は心地よい疲労と充足感に満たされていた。

 コースの方を見遣ると、絵里香が一位の走者に追いつきそうなところだった。

 あのバトンパスで相当な距離を詰めることが出来たようで、前を走る走者の――若い旦那さんに見合った若い奥さんだった――顔に焦りが浮かんでいる。夫に負けず劣らずの快足を見る限り、スポーツの得意な夫婦なんだろうなというのが分かる。

 けれど、見た限り足の速さだったら絵里香に分があるように思えた。

 絵里香に残された距離はあと半分。接戦になるだろうけれど、このままいけば僅差で勝てるだろう。

 安心してしまい気が緩んだのか、軽く眩暈がした。

 ここで倒れてしまっては格好がつかないと思い、慌てて頭を振り意識を取り戻す。
 ――悲鳴が聞こえた。

 何事かと――リレーの決着がついたのかと――思い、ゴールの方を見る。

 ゴールテープは切られ、絵里香と争っていた選手が膝に手をついて荒く息を吐いているのが見えた。

 絵里香。絵里香はどこだ。

 さっき聞こえた声が、歓声ではなく悲鳴だったことに不安が生まれた。ただ決着がついただけならば、あんな声は上がらないだろう。

 そしてその声が姫宮のものに聞こえたことが、一層僕の不安を掻き立てた。

 どんどんと絵里香を捜す目の動きにも落ち着きが無くなっていく。

 そして――ゴールの先、走り終えてすぐのトラックの内側で、絵里香が倒れこんでいた。担架を持った男性二人が駆け寄るのが、視界に映り――映っただけで、情報として処理されず、僕はぼんやりとその光景を眺めていた。

 その一瞬の後、背筋が凍りつくような恐怖が僕を襲った。

 ――また失うのか?

 大切な人が、倒れている。

 ――また、僕の元からいなくなってしまう。

 その恐ろしい想像が心を塗り潰していくのを感じながら、それでも抗いたくて震える声で叫んでいた。

「絵里香っ!!」