妖精の書架

 夕暮れの穏やかな陽光が淡く室内を照らしている。赤味を増した陽が遠い稜線へと消えるように、ゆっくりとたゆたう空気は、この部屋が外界とは違う時間の流れの中に在るようだ。僅かな動きしか見せない空気の流れは、優しく暖かい日差しに照らされた塵をも包んでいて、空中を漂うその姿が余計に時間の感覚を曖昧にさせてくる。

「ぼーっと窓の外なんて眺めて、どうしたの?」

 少し、意識を遣りすぎていたのかもしれない。なんとなく眺めていたつもりが、傍目には意識を飛ばして――はたまた考え事をして――いるかのように見えたらしい。

「いやぁ、夕日が綺麗だなって思って。先輩もそう思いませんか」

 少しだけ取り繕うように、カウンターに腰掛けた――たった今話しかけてきた女性に向かって問いかける。

「ん。まぁ私は見慣れてるからそんな感慨なんてないけど。リョウはそうでもなさそうね?」

「そりゃあ図書委員で毎日ここにいる先輩にしたら見慣れているんでしょうけどね。それでも綺麗なものは綺麗だって思ったりしません?」

「人間ってそんなにいつまでも新鮮な気持ちを持っていられるほど器用なもんじゃないわよ」

「身も蓋もないなぁ」

 それっきり口を閉ざし、膝の上に載せた文庫本にまた集中し始めた姿を見て、なんだか苦笑したい気分になった。

(相変わらず読めない人だなぁ)

 話かけてきたかと思えば、本からは目を離さない。答えたところであまり興味があったようには振る舞わない。どこまでもマイペースで、自分本位で――綺麗だった。

 冷たさを感じさせる変化に乏しい表情は、けれどとても整っていて、それがまるで職人の手による氷の彫像のように鋭い美貌を湛えている。腰まで届く黒髪は丁寧に櫛が通っていて、夕焼け色に染まっているのに、どこまでも吸い込まれそうな艶を放っていて思わず見蕩れてしまう。

 容姿だけ見れば、ドラマか何かで見たような大和撫子っていう雰囲気を醸し出している。

 落ち着いた佇まいが、頭一つ分は低い小柄な体躯とは裏腹に大人びた印象を与えていて、その読めない性格も相まってどこかミステリアスな女性という、周囲の評価はあながち間違いでもないなと思う。

「先輩、今日は何の本読んでるんですか?」

 そんな今更な再認識をしたところで、めげずに会話を続行させる。向こうから話しかけてきたっていうことは、いつもよりは話したい気分なんだろう。

「マンガだけど」

 文庫本を手にしているから小説を読んでいるのだとばかり思っていたけど、文庫版のマンガだったんだ……。文学少女然としている割に、乱読家だからなぁ。確かこの前は将棋の本とか読んでなかったか?

「ホント、何でも読みますよね、先輩って」

「好きなジャンルがあるわけでもないしね。それに、あんまり偏った読み方するの好きじゃないのよ。だってもったいないじゃない。もしかしたら、自分が今まで気付かなかっただけで、実はノータッチだったジャンルがすごい自分の好みだったりしたら」

「んまぁ、そりゃそうですけど。でも普通はそう思っててもなかなか手が伸びないんじゃないですかね、関心の無いジャンルとか」

「私はもともと全ジャンルに関心がないから逆に全ジャンルに手が伸ばせるのよ」

「そういうもんですか。先輩らしいっちゃらしいのかなー」

「それと、その先輩言うの止めなさいっていつも言ってるでしょ。早くはつかさんって呼びなさいよ」

「それこそいつも言ってますけど、無理ですよー。そのちんまい容姿見てたらどうも名前じゃ呼びづらくって。先輩って言うのだって結構――」

 ――しんどい、と言おうとしたところで言葉に詰まる。

 すごい怖い! 何その細めた視線の鋭さ! なまじ美人なせいで――しかも無表情な美人――下手に睨まれたり凄まれたりするよりよっぽど怖い!!

「(そろそろはつかさんって呼んで貰わないと先にすすまないじゃない……)」

「ちょっと。睨みながらぶつぶつ言わないで下さいよ。すげぇー怖いんですけど」

「なんでもないわよ。悪かったわね、小さくて。どうせ小学生に間違われますとも。ごめんなさいね、高校の制服着たコスプレ小学生で。小さいけど、発育は良いのよ? 最近は隣に住んでるじいさんに「はつかちゃんは小学生みたいなのに立派な胸と引き締まった腰と太ももが最高じゃのう。儂の愛人にならんかね」って言われてるんだから」

「すみませんでしたごめんなさい。――って、そのじいさん若ぇーな! 高校生相手に愛人とか捕まるぞ! しかも立派な胸とかセクハラだろ!」

「あら、私は腰とか太ももっていう単語も言ったのに胸にだけ反応するなんてリョウも結構興味津々だったりする? 私のむ・ね」

「ちがっ。その前に発育がどうの言ってたでしょう!? それに腰とか足よりセクハラとして解りやすいっていうか……ごめんなさいそんな目で見ないで下さい」

 そんな、普通侮蔑するはずの場面で――何故か微妙に笑みとも採れそうな細めた視線を投げ掛けてくる。僅かに下げられた目尻が、何らかの含みをもっていそうで落ち着かない。

 いや、侮蔑されるよりはいいのかもしれないけど。

 結局、まんまと乗せられた。きっとさっきの自虐混じりの言葉も遊びの一環だったんだろう。読めない性格のせいでどんな反応もアリだと思ってるこっちの考えを逆手に取られたんだろう。いつも感情の起伏が乏しいこの人がマシンガンもかくやというような発言をするなんて、よくよく考えればらしくないって解りそうなものなのに。

 やっぱりこの人を相手にしていると、調子が狂う。それは、この人の性格ゆえなのか。それとも惹かれてしまっている自分のせいなのかは解らないけど。

 パラリ。

 静かにページをめくる音が無音の空間に響く。思ったより大きな音に聞こえて――バカな考えだとは思うけど――周囲の視線が集まってしまうんじゃないかと室内を見回した。見回して、図書室には他に人がいないんだと気付いた。

 それもそうか、と思う。六月に入ったばかりのこの季節。中間考査も終わり、皆ほっと一息ついて部活やら遊びやらに精を出している時期なのだから、俺のように入り浸って勉強なんかしてる方が珍しいんだろう。去年までは自分もそうだったのにな、と苦笑を洩らす。

「……ん?」

 苦笑だけのつもりが、吐息混じりになっていたらしい。先輩が今度は顔を上げて疑問の表情を投げかけてくる。「どうしたの?」と、言葉より雄弁に語るその顔は、けれど先ほどまでの無表情よりは人間味が出ていて、少しばかりどきりとする。

 心臓が一度だけ大きく脈打ち、胸から喉にかけて圧迫されているかのような感覚に襲われる。詰まった息をゆっくりと吐き出し、赤くなっているだろう顔を夕日がうまく誤魔化してくれていることを祈りながら呟く。

「静か、ですね」

「今の時期じゃしょうがないでしょ。試験勉強でしか図書室を活用しない高校生には。活字離れ活字離れとは言われているけれど、高校生には元々無縁に近いしね。まぁおかげで静かに読書出来て私は好きよ」

 くすり、と僅かに口端を上げて微笑む。その今にも消えてしまいそうな僅かに覗かせた笑顔に、静寂を好む以上の意味が含まれていることを感じる。

「まあ、こんな時期に勉強なんかしに来る奇特なやつなんてリョウくらいでしょう。どうして? あんなに頑張ってた陸上を辞めてまで勉強に精を出すなんて。結構期待されてたんじゃないかしら?」

「先輩は、なんで大学行くんですか? もう作家としてデビューしてるんだから、そっちに専念するもんだと思ってたけど」

 先輩の疑問から外した返答を――というよりも疑問を疑問で返した。普通に考えれば成立していない会話。意図的に外した俺の言動は、どう捉えられているだろうか。まぁ……あながち答えを外した言葉でもないんだけど。

 こちらからの言葉をいつも通り深く捉えていないのか、それとも聡明な彼女のことだからそこに含まれる意味を感じとったのか。特に戸惑うこともなく返事がくる。

「んー。大雑把に言えばインプットを増やすため、かな。運良くデビューさせてもらえたわけだけど、私くらいの年齢だと経験値が圧倒的に少ないと思うのよ。その状態で作品を書いていても、いつかアウトプットに耐え切れなくなって苦労する日が来ると思うわ。だから、色々出来る学生の内に出来る限り経験を積んでおこうと思って」

「はぁー……。すごいですね。結構先を見据えてるんだなぁ」

 目の前――文字通り目の前の人――のことしか考えられない自分なんかとは違って、すごく“大人”という言葉を意識させられる。

「それにね。保険……っていうわけじゃないんだけど、このまま死ぬまで作家を続けられるかは解らないでしょう? いざ続けられなくなった時、他に何も出来ません、世の中のことを何も知りませんじゃ話にならないじゃない。それこそ一発ヒットの芸人じゃあるまいし、手持ちのカードは増やしておくに越したことはないでしょ」

「………………」

 思わず閉口する。本当にこの人は俺とほとんど歳の変わらない学生なんだろうか。そこまで考えているなんて。学生デビューとかしていたら、それこそ舞い上がってそれ一本にのめり込むじゃないかと、漠然と思っていた。保険とか、弱腰とは違う――もっと大人な、きちんと社会という世界を見つめている。

(遠いなぁ……)

 短絡的に勉強を始めた自分が少しばかり恥ずかしい。この人は、自分が思っていたよりももっとずっと遠くを歩いている。どれだけ歩けば追いつけるんだろう。走ってすら追いつけるのかどうかも解らない。

 この圧倒的な差を見せつけられると、陸上でいつも必死に追いかける自分より速い走者すら軽く手が届くところにいるような錯覚に陥る。精神面と物理的な距離で違いはあるにせよ、先輩に追いつこうとするよりは幾分気楽だろう。

 中学の頃とかに抱いた高校生っていうのは随分と大人に見えた。自分がその立場になって、「なんだ、ただの中学の延長か」という考えを抱いたものだけど、当時感じた漠然とした“大人”よりも、先輩は一歩も二歩も先を行っているように感じられる。中学生の浅知恵が思い描いた曖昧な大人よりも、今になって明確に受け取った大人は、受けた衝撃は、以前の比じゃあなかった。

 不安とも、絶望とも思えるような気持ちが芽生え、自然と俯く。床に落ちた自分の影は、いつの間にか長く伸びていたのに、心持ちのせいか酷く頼りなく見える。その影を見ると、きっと本体である自分も随分と頼りなく見えているだろうと知れる。

 だから、だろうか。珍しく、本当に珍しいことだけど、声に柔らかな雰囲気を乗せて先輩が話かけてきた。

「ねえ。妖精の書架って知ってる?」

「は? 妖精? ショカ?」

 突然の話題の変化に戸惑いつつも、真意を計るように返事をする。今の流れで、どうしてこんな話題が出たのか。いや、先輩の性格を考えればこんな話題の転換なんてままあることだし、何か考えがあってのことかもしれないけど。

「聞いたことないですね。何かの本のタイトルですか?」

 せっかく振ってきてくれた話題なのだ。心の中に立ちこめていた暗雲を強引に吹き飛ばし、なるべく平常を装って応える。

「いいえ。そのまんま書架――あぁ、図書館の専門用語で本棚のことなんだけど、妖精の書架って呼ばれている不思議な棚があるのよ」

「はぁ……。それはまたロマンチックな棚ですね」

 なんだか、先輩の口から出た単語にしては、酷く似つかわしくない。こう言ったら怒られそうなものだけど、鋼鉄の書架と言われた方がしっくりきそうだ。

 そこまで考えて、似つかわしくないってなんなんだろうという疑念が浮かんだ。確かに先輩はどこか冷淡な印象はあるけれど、つかみ所がないという雰囲気がそれを押して余りある。だったら、どんな言葉が来ても自然と受け入れられそうなものなのに。

 思えば、先輩は不思議な部分が多い。言動もそうだけど、自分で本のジャンルに興味が無いと言っておきながら、作家なんてやっている。作家ってのは、本に興味がある人がなるもんだと思うんだけど、どうなんだろう。それとも、興味が無いと言った先輩の言葉が嘘――は、言い過ぎにしても何か裏があるんだろうか。

 考えても仕方のないことだとは思う。先輩とはこうして図書室でいつも一緒になるし、仲が良い方だとは思うけど、それでも先輩の考えや生い立ちといったコアの部分に触れるような会話はしたことが無い。だから、本当の意味で先輩のことを理解はしていないんだろう。

 それでも。いや、だからなのか。もっと知りたいなとも思う。

 捉えどころがなくて、一見して冷淡で、でも意外と面白かったり、優しかったり。静かな印象なのにびっくり箱みたいに様々な一面を覗かせる彼女を。

「妖精の書架っていうのはね、この高校に伝わる――まぁ一種のおまじないとか伝説みたいなものかな」

 だから、一言も洩らさぬよう耳を傾ける。思えば、話題を振ってくることはあっても、こうやって柔らかな微笑みを浮かべながら、まるで自分の身体の一部を差し出すかのように大事に話す姿なんて初めて見る。

「この高校、この図書室のとある書架に配架――置かれた本を最初に借りて行った人には、その本の物語を体験出来るっていう不思議な不思議な言い伝え」

「なんとも眉唾というか……、それに割とリスキーな言い伝えですね」

「そうね、何も知らずにそこに置かれていた本を手に取った人には、内容によっては災難となるかもしれないわね」

「だから妖精って名前が付いてるんですかね。確かに、妖精にまつわる話には願いを叶えてくれるものもあるけど、同時にいたずらをする話も結構ありますよね」

「かもしれないわね。奇しくも抱いていた願望と、本の内容が似たような人にとっては願いが叶ったかのように思うだろうし。逆にまったく違っていた人にとってはいたずらでもされたかのように理不尽な出来事が降り注ぐかもしれないものね」

 なんとも不確定要素の強い話であるのに、先輩の表情はとても楽しそうだ。今まで見てきた無表情という表情は鳴りを潜め、優雅に笑っている。と言っても微笑、という程度だけど。この表情も先輩の一面なのかもしれない。それにしても、こういう系統の話に興味でもあったんだろうか。それとも、この話にはまだ続きがある……?

「さて、ここで問題になっているのは、本の内容とそれを手に取る人の二点、よね?」

 どうやら後者だったらしい。

 将来を見据えて行動するくらいリアリストな先輩が語るロマンチズム。このギャップに魅せられて、続きがとても気になり始めている自分を意識する。聞き始めはさして興味もなかったはずが、そこに先輩の意志が混在していると解った途端にこれだ。我ながら現金な性格だと思いつつも、しょうがないと切って捨てる。だって、気になる女性が嬉々として語る内容なんて、それこそ気になるだろう?

「まぁその二点以外にありえないでしょうね。降りかかる本の内容なんて千差万別。それを手に取る人の願望だって千差万別。その両方が合致するなんて一体どれだけの奇跡なんだか、っていう話ですよ」

「そうよね、普通に考えればね」

 よくぞ言ってくれました、と言わんばかりの笑み。もうなんていうか微笑と言うより邪悪と言っていいくらい、気持ちのいい悪巧みの顔。

(早まったかな……)

 下手に乗り気を見せてしまったことに若干の後悔を覚えつつも、まぁいいかとも思う。こんなにころころと表情が変わる先輩っていうのも珍しい――というか天然記念物ばりのレア加減だろう。この話のどこに、それだけ先輩を突き動かすものがあるのかは解らないけれど、ここまで来たら最後まで聴いておこう。

「ねぇ? ここでもし、どの本が置かれるか解るって言ったらどう?」

「どうって……そりゃあリスクは減りますよね。それどころか、本が解るってことは、内容も解るんだから自分好みの時を狙えば――」

「そうよね。例えば次に置かれる本が恋愛モノで、中身もすごい自分好みだったら。それはきっと素敵な体験が出来そうよね」

「確かにその通りだとは思いますが、実際はどこの書架……でしたっけ?――がそうなのかも解らないですし、いつ置かれるかも解らないでしょう?」

 くす。

 冗談じゃなく、本当にそう発音したのかと思える程の――あからさまな嘲笑。いや、嘲笑というか、悪い笑み。そんな、どこか悪意と紙一重の笑い。見下されていそうなのに、「出来の悪い子ね」と優しく諭されているかのようにも取れる。どこまで悪そうに振る舞おうとも、先輩の容姿と性格と雰囲気が、危ういバランスで魅力的に見せてくる。

(本当に不思議な人だな)

 こんな人、今まで見たことない。一つひとつ表層を剥いでいっても、どこまでも違った一面が見えてくる。終わりが見えない。日々見えてくる小さな新しい発見にどうしようもなく興味が高まっていく。

「ねぇ」と言ってぱたりと読みかけの本を閉じ、無造作に立ち上がる。その一挙手一投足から目が離せない。どこにも力みがなくて自然な動きなのに、今や先輩を包む妖しげな雰囲気が俺の視線を驚くほど強く吸い込んでいく。

「どうして私が図書委員なんてやっていると思う? どうして本のジャンルに興味のない私が作家になれたと思う?」

「それ、は……。やっぱり本当は本が好きだからとか、静かに読書を出来る空間にいられるとか、そういうことじゃないんですか?」

「本当に、――リョウってば可愛いのね」

 熱にあてられたようにどこか上の空な――と言うよりも、あることに集中しすぎているかのような――ちぐはぐな返答。会話をしているように見えて、先輩の中では既に一つの結論のための道筋が出来ている。誰もその歩みを妨害出来ないし、先輩自身も邪魔をさせるつもりがないというのがひしひしと伝わってくる。予め決まっている言葉を発し、否応なくストーリーを進ませるゲームの導き手のように。

 するりと手が伸びてきて、想像以上にすべすべとした指が頬を滑らかに撫でて行く。ずっと見つめていたのに触れられるまで近づいてきていたことに気付かなかった。完全に場の雰囲気と先輩の気配に飲まれ、まともに思考が働いてない。

「この書架の話を聞いた時、私は真っ先に図書委員を希望したわ。幸い、こんな居るだけが仕事みたいなつまらない委員。なんの問題もなく就くことが出来た」

 頬を通り過ぎ、後頭部まで回った先輩の手にぐいっと力が込められる。そうして引き寄せられた結果、目の前には怖いほど整った彼女の顔。覗き込んだ瞳は、ゆらゆらと透明な滴で濡れていた。

 あまりにも綺麗でゴクリと、自然と喉が鳴った。

「そして――私は狂ったように書架のことについて調べ始めた。噂話を集め、OBからも話を聞いて、情報をまとめて整理して吟味して――」

 小悪魔の笑みがいっそうの妖しさをもって美しく歪んだ。すごく矛盾した表現だけど、そうとしか思えなかった。どこまでも邪悪で、悪戯心に満ちているのに、それを引き起こした理由が純粋すぎて芸術にまで昇華されたかのような、そんな笑み。

「妖精の書架を見つけたわ」

「…………ぁ」

 意味のある言葉が出なかった。心臓は今やばくばくと大きな拍動を放ち、胸を内から突き破らんばかりだった。苦しくて、締め付けられているのに、どうしようもなく何かを期待してしまっている。

「見つけてからは、本の選定に入った。取り憑かれたように”あるジャンル”の本を読み漁ったけれど、結局満足のいく内容のものはなかったわ」

 きっと、ジャンルに興味が無いのは本当だ。それでも特定のジャンルを読み漁ったのは、――必要だったから。その内容が、どうしようもなく、先輩にとって無くてはならないものだったから。

「それじゃあ――」

「そう」

 一転して、幼児のような無垢な笑み。正解を引き当てた我が子を慈しむような、全てを包む柔らかな羽毛のような。でも、そんな母性を彷彿とさせる言葉では違う。様々な温かな例えが浮かんだけれど、どれとも似ていて、けれどどれも当てはまらない。そこには優しさだけじゃなく、どこか苛烈な熱が込められている。でも、そんな表情をどこかで見たことがあるような気がする。

 ――そうだ。確か、クラスの女子が彼氏が出来たとか言って、本当に嬉しそうに幸せそうに浮かべていた表情。それに、限りなく近い。

「無いなら、作ればいいのよ」

 不思議と確信があった。

 これは、今のこの状況は、間違いなく先輩が望んだ展開だ。うぬぼれとか、自意識過剰とか、そんなものを越えて降りてきた決定事項。

「先輩は……こんなことのために、誰もなりたがらない図書委員になって、作家にな……って……?」

「こんなこと? ふふ、違うわよ、リョウ。こんなことだからこそ、こんなことだからよ」

 なんて、出来レース。なんという自己満足。本の内容を体験出来るということを利用して自ら本を作り、図書委員となって真っ先に借りるという自作自演。

 ――でも、本当にそうだろうか?

 確かに全ては先輩の描いた通りに進んでいるのかもしれない。でも、安易な気持ちだけで、あるかも解らない妖精の書架を見つけられただろうか。どれだけの熱意をその行動に込めていただろう。安易な気持ちだけで、作家になんてなれるだろうか。

 そんなはずがない。

 誰よりも熱くて真剣な、ある一つの気持ちを持っていたからこそ、掴み取ったんだ。

「あまり、恋する女の一途さを舐めない方がいいわよ?」

 くすりと放った今度の笑みは、先ほどまでの美しく歪んだものなんかじゃなくて、綺麗で可愛くて、普通の女の子の恥じらい混じりの表情だった。

「はつか、さん……」

 自然と、言葉が洩れた。

 そして、驚くほど自分の中で違和感が無かった。

「やっと、言ったわね」

 頭に回っていた片腕に加えて、もう一方の腕が回る。半ば包み込むようにして回された両腕に引き寄せられ、コツンと額と額が軽快な音を立てる。

 視界にははつかさんの目がいっぱいに映るばかり。

「好きよ、リョウ。ずっと惹かれてた。陸上に打ち込むその姿を見た時から」

「俺も……です、はつかさん。テスト勉強で来た図書室で、本を読む綺麗な姿を見た時から」

「あなたを独占したくて、私は作家になった」

「あなたとずっと同じ道を歩きたくて、陸上をやめてまで勉強を始めました」

「ふふ、短期間でメガネを掛けなくちゃならなくなるくらい打ち込んだのね」

「先輩が行く大学って、俺なんかにはホント雲の上なんですから……」

「もっと早くお互いの気持ちが解ってればランク下げてあげたのに」

「お互い不器用だったってことで。俺は頑張るだけです」

「あー、もう。ホント、リョウってば可愛いわ」

 本当に、不器用な二人だな。

 言葉にする勇気がなくて、遠回りな道を選んだはつかさん。でも、作家なんて険しすぎる道すら、彼女の気持ちの障害にはならなかった。

 言葉にする勇気がなくて、雲の上を目指した自分。どんなに高い高い場所であっても、絶対に辿り着いてみせる。それが例え先輩の描いた“シナリオ通り”だったとしても、自分の気持ちと努力は絶対に無駄にはならない。

 ふと、そう思ったところで――

「ところではつかさん、この後の展開ってどういう風に書いたんですか?」

 思ってもみなかった質問がきたというような、堂々とカンニングをしだした生徒を見た先生のような、パチパチと虚を突かれたように瞬きを幾度か繰り返し――今度は純粋に悪戯心を秘めた微笑を浮かべて――

「続きは本を買って読んでね」

 幸せそうな表情を浮かべた彼女は、やっぱり彼女のままで、先の読めない言葉を紡ぐ魅力的な“彼女”だった。