Astral Lady


『私は夜に在り、数多星々を司る星の王女だ』
彼女の紡ぐその常套句は、星々を司ると同時に逃れ得ぬ星からの呪縛。
けれど、その死の呪いからは既に解放されたのだ。
願わくはこれから幾星霜、君に数多の希望が降り注がんことを――

 

プロローグ

「千早、デートをしましょう」

 少し低くてしっとりとした声音の、それでいて甘さを含んだケイリの弾むような声が心地よく耳に届く。不思議と良く通るその声は、ざわつく教室内を瞬く間に駆け巡る。

「えっ……?」

 教室の入り口に通され、開口一番そう告げられた僕はどう反応するべきだったのか。
 あまりの突然の言葉に、しかもそれがケイリの口から発せられたことに慎重さを心掛けるいつもの思考は無残にも消し飛び、代わりに全てを押し流す空白が広がる。

 それ故ゆえに出てしまった頓狂な僕の声もまた、ケイリの言葉に因って深と静まりかえった教室に余すところなく広がっていく。

 普段であればしないような失態。ケイリ以外から掛けられた言葉ならば返さない態度。いや、ケイリであろうとも、少し前までならばもっとマシな対応だったに違いない。

 けれど、今の僕とケイリは――以前とは変わった僕らの関係は、日常の一コマに予想外の大きな影響を与えてきた。その時の僕はまだ自覚が薄かったのか、はたまた自分の予想以上にそれの影響力があったのか。本当のところは解らないけれど、きっとそれが恋人になる、ということなのだろう。

 もしもこの時、もっとケイリとの仲を意識していたら。恋仲になってもう少し時間が経っていたのなら。もっと違った反応を示すことが出来たはずだ。「まあ」と云って少しわざとらしく顔を赤らめてみせたり、余裕を持った態度で微笑みながら「冗談を」と受け流してみたり。

 後から考えれば他にも様々な対応が浮かんでくる。けれど、ケイリと付き合い始めてすぐの――惹かれ続けた彼女と結ばれて間もない時期だったこの時。天にも昇る気持ちの日々が始まったばかりのこの時は、どこにもそんな余裕が無かった。

 ともかく、僕が最初の反応を間違えたせいで、ケイリの言葉を発端としたそれは、暫くの間学院中を騒がせるちょっとした事件へと発展してしまった。

 

第一話 乙女たちの狂想曲 〜 Garden of girls 〜

 ケイリが一命を取り留め、事の顛末を見届けてから数日――

 未だ肌を刺すような寒さが続く日々。もう幾ばくもすれば卒業を迎える時期だというのに、手を擦り、吐く息は濃い白を残す冬の出来事だった。

 陽も上がらぬ内に起床し、普段通りに支度をする。化粧を施し、学院の制服に袖を通す一連の流れにももはや淀みはない。皆で揃って朝食を摂り、今はまだ?き出しの枝を晒した寂し気な櫻並木の道を登校する。別段、普段と変わらぬ光景を見ていた。

 いや、少し違ったのかもしれない。

 彼女と心を通わせてからの数日は、世界の色彩が濃くなったような――柔らかく、明るさを増したような、そんな、以前とは微妙に異なる世界を生きているように感じられた。もちろん、実際に世界が変貌を遂げた訳ではないけれど――

(気の持ちようなのかな……)

 と、漠然と自分の感覚に対して考えを巡らせる。

 好きな人が出来た。

 その事実だけで、僕が感じる世界は少しだけ色を変えた。

 些細でありながら温かい日常に心躍らせる。今日ケイリに逢ったら何と挨拶をしよう。

 ごきげんよう――この挨拶を、彼女は好まない。昔から時候や日々の機微を大切にしてきた日本にあって、そんな、一言で何でも済んでしまうような挨拶はもったいないということらしかった。僕自身は便利な言葉であると思うし、嫌いではないのだけれど。それでも、彼女の云うことも解る気がする。

 ここにいると余計にそう思う。

 ここ―― 聖應女学院は明治時代から続く由緒あるお嬢様の学院だ。基督教的な行事に加え、日本的な礼節・情操教育も行われているため、世間とは隔絶された世界が形作られている。

 そんな世界だからこそ、外ではめっきり少なくなった他人への思い遣りや、細やかな配慮というものが随所で見受けられる。それならば、確かに日々移ろう情景や感慨を挨拶に込めるのも風情だろう。

 未だ寒いこの気候のことを云おうか、それとも冬場の締まった空気が映えさせる今日のこの抜けるような青空のことでも云おうか。

 そんなことに思いを馳せていた。

       ◇

「千早さん、ケイリさんがいらしてますよ」

「ありがとうございます、聖さん」

 受付嬢の聖さんへの返事もそこそこに、教室の入り口を見ると、そこには美しいブルネットの女性が立っていた。

 ――トクントクントクン。

 まずい。ケイリの姿を見ただけで鼓動が強く早くなるのを感じる。自分でも顔が少し綻び、否応なく気分が昂揚していくのを自覚する。

 しかし、いつまでもここで立ち尽くしてケイリを待たせるのも忍びない。彼女自身は気にしないとしても、やはりクラスメイトは多少気になるようで、女性特有の好奇に満ちた視線をそこかしこから感じる。学年の違う生徒がエルダーに逢いに来る。そこにはやはり特別なものを感じたがるものなのだろう。

 焦らず慌てず、しかし逸る気持ちを抑えきれず、気持ち早めに教室の入り口へと進んだ。

 充分に近づいたところで、改めてケイリを見る。

 薄い褐色の肌と、印象的な翠玉の瞳。吸い込まれるように透明なその宝玉は、優しさを湛えながらじっと僕の顔を見つめている。

 とても自然体で、けれど不思議とある種の威厳に満ちた、いつもの古拙な微笑。

 この微笑を見る度に、ああケイリだ、と強く思う。

 お嬢様の多いここでは優雅な微笑みや、慈愛に満ちた、安らぐような笑みはよく見掛けるけれど、彼女のような気品を備えた微笑はあまり見かけない。それでいて、その品位に押されるような威圧感は感じられないのだから、これはもう生まれもってのものなのだろう。

 そんな微笑に感慨を覚えると同時に、今朝考えていた挨拶でさっそく出迎えようとした時、先にケイリが口を開いた。

「千早、デートをしましょう」

 ――え?

 彼女は今、何と云ったのだろう。この場で云うにはあまりよろしくないような、けれど無意識に自分の心が欲していたような、そんな単語が含まれていた気がする。

 暫くの間、忘我にも似た状態で――エルダーとしてはあまりにも間の抜けた顔で――ポカンとしていたところ、にわかに周囲のざわつきが耳に入り始めた。

「ちょ、ちょっとケイリ!」

 我に返って慌てて彼女を窘めようとする。

 それが、いけなかった。

 これがケイリと付き合う以前であれば、冷静に切り返せていたのだと思う。けれど、今はだめだった。僕とケイリは既にお互いの心を知っている。通い合わせている。であれば、そんな僕にとって彼女の今の言葉は、願ってもない一言だったのだから。

 頭では、この状況で先ほどの言葉を素直に受け入れてはならないと解っているのに、心では待っていた言葉を受け入れたいと願っている。そんな頭と心がバラバラな状態ではうまく切り返せるはずもなく、まるで初心な幼子のように狼狽してしまい、それが却って周りの好奇を一層引き立ててしまった。

「まさか、お姉さまとケイリさんが?」

「デートというと、やはり付き合ってらっしゃるのかしら」

「まぁ! でも一緒にお買い物に行くことをデートと称することもありますし……」

「でも、あのお二人が並んで歩いている処はさぞ絵になるのでしょうね」

 まずいまずいまずいまずい!

 すごく、話が大きくなってきてしまっている気がする!

 このままではあれよあれよと、尾ひれ背びれにおまけに水かきあたりまで付いて噂が流れてしまう。この一年近くで僕は、話題に飢えた女生徒のあまりの情報伝達の早さと、恐るべき脚色能力を実感してしまっている。

 卒業までもういくらもないというのに、最後の最後でどんでん返しは勘弁して欲しい。

 それもとびっきり致命的な……。

「う、うふふ……ケイリったら。少し、外でお話しましょうか」

 慌てていつもの表情に戻し取り繕うけれど、時既に遅しもいいところだろう。そのような行為にいくらの効果も望めないことは明白だった。けれど、そうでもしないと、むしろ僕の精神が崩れてしまう。最近は慣れのせいかご無沙汰だったけれど、久しぶりに肝の冷える思いを味わっている。

 焦燥に駆られながらも、意識してゆっくりと、優雅にケイリを廊下へと連れ出す。

「ちょっとケイリ。どういうことなのかしら?」

「うん、今朝から千早のことを考えていたらどうにも気持ちが抑え切れなくなってしまって。

気づいたらここに居て、さっきの言葉を云ってしまっていたの」

「……っ」

 その科白は卑怯だ。そんなことを云われたらあまり強く注意できなくなる。ただでさえ自分の顔が赤く染まっているのを自覚しているから、窘めても説得力がないというのに。

 突然の展開に動揺する僕に比べてケイリの表情は相変わらずだ。幾分普段よりも表情が柔らかいけれど、殊更に気負ったり恥ずかしがったりもしていない。

 なんだか、……ちょっと悔しい。

「と、とにかく! あまり危険な発言はしないで下さいね。十月の事を忘れたわけでもないでしょう?」

 『聖應の十月革命』――それは本来、二年前に起きた事件を指す。校則違反の嫌疑にかけられた生徒を当時のエルダーが晴らしたという、ロシアの葡萄月の反乱に準えて呼ばれている事件だ。

 去年の十月にも、嫌疑にかけられた香織理さんをエルダーである僕と薫子さん、そしてケイリが代表となって生徒総会にて疑いを晴らすという事態があったのだ。似たような状況であり、二年前の『十月革命』を知っている者も多数いたため、革命の再来として僕たちの件も通称『十月革命』と云われていた。

「ふふ、そうですね。革命を起こした私たちが、革命の火種となった事件をなぞってしまうのはよろしくないね。ごめん、気をつけるようにするよ」

「まあ、解っていただければ良いのですけれど……はぁ」

 深く、息を吐く。

 なんとか彼女の方は危険性をきちんと理解してくれたらしい。けれど、当のケイリは面白いことを見つけた子供のように、ニコニコと笑みを絶やさない。本当に解ってくれていれば良いのだけれど。ケイリの思考は時々読めないからなあ……。

 それでも、こうして心のままに僕をデートの誘いに来てくれたことは素直に嬉しかった。本来であれば『男として』僕の方から誘うべきだったのかもしれないけれど。学年も違い、同じ寮でもないとなると、なかなか顔を合わす機会もない。そう思えば、思い立った瞬間すぐに行動に移ったというのも頷けないではない。もうちょっと時と場所を考えて欲しいとは思うけれど。

 今回はそれだけ僕のことを想ってくれていた、ということにしておこう。

 問題は……今日の放課後にはかなりの範囲に広まってしまっているであろう噂をどうするか、かな。大筋はズレないにしても、どんな尾ひれがついてしまうのかも気になるところだ。

「それじゃあ千早、また後で。詳細を決めたら知らせるよ。それとも、もしかして今の件でデートは無しになったりは……しないよね?」

 ケイリにしては珍しく語尾が少し小さくなった。

 あぁ、彼女にしても楽しみであり、不安だったのだ。こちらとしては断る理由もないし、むしろ願ってもないことではあったけれど。でも確かに、逆の立場で僕がケイリを誘うとしても、多くの期待と楽しみ、そして一抹の不安は抱えてしまうだろう。

 立場を入れ替えて胸中を察すれば、彼女のこの反応は普段大人びて見えるのに反して、年相応に可愛らしく思える。

「ふふ、大丈夫ですよ。私も楽しみにしていますから。連絡、お待ちしてますね」

 ケイリの弱気を打ち消すように朗らかに笑って応えると、いつもの彼女からは想像もつかないくらいに顔を輝かせ、上機嫌に自分のクラスへと戻って行った。

 一言で云えば、甘かった。

 放課後を待たず、昼休みの時点で既に噂は広まってしまい、まだまだ僕の認識は男のそれに準拠していたのだと痛感させられた。

 昼休みを知らせるチャイムが鳴り響き、温かい物でも食べようかと思い学食に入った瞬間、四方八方からの視線を感じた。

 一瞬にして場の雰囲気が変わる感覚。波が引くように静かに伝播していく異質な空気。

「だいぶ慣れたつもりではいましたけれど……女性の噂好きというものをまだまだ侮っていたようですね……」

 知らず、独り言が洩れる。

 流石に露骨な話し声や、わざわざ事実を確かめに来るような生徒は居ないものの、やはり好奇な視線というものは受ける側からしたら敏感に察知出来てしまう。

 以前の学校で周りから疎まれていたせいもあるのかな、と少しだけ昔を思い出してちくりとした痛みが胸を通り過ぎる。今回のものは悪意のある視線ではないけれど、やはり数年間針の筵の中で過ごしてきた身としては、自分に向けられる視線に少々過敏になってしまっているのかもしれない。

 平穏なこの学院では意味合いが少し違うし、それにエルダーとなってからは注目を浴びることに慣れたつもりではいたけれど。

「なーに辛気臭い顔してるのよ」

 少しナーバスになりかけていたところで薫子さんに話掛けられた。

「薫子さん……」

 今の僕とは正反対に、快活な笑顔。その高い身長と切れ長の瞳から、ややもすると怖く見られがちだが、こういった裏表の無い気持ちの良い笑顔がそれを否定している。

 竹を割ったような性格で、その真っ直ぐさはこういう精神状態の時に心地良い。

「いえ、少々昔を思い出していたものですから」

「昔って、前の学校にいた頃のこと?」

「そうです。あの頃もこうやって視線を受けていたな、と。まあ今よりもずっと悪い意味で、ですけれど」

「う〜ん……あたしも昔はだいぶ浮いてたけどね。確かにこことは違った浮き方だったけどさ。だけどさ、千早は最初っから目立ってたんだし、エルダーにもなったんだから、注目されるのはもう慣れたもんだと思ってたけど」

「そうですね、でも何と云ったら良いのでしょうか……」

 そう云い置きながら、指を顎に添えつつ言葉を選ぶ。今までとは違ったこの感覚、どう説明したら良いものだろうか。

「確かに、エルダーとして注目されるのはもう慣れてはいるのです。ですが今回の件は、何と云うか、週刊誌に載ってしまったような……」

 そこで、薫子さんがきょとんと眼を丸くする。そして理解が追いついたようで――

「あっはは! 何それ。まさかこの学院にいて週刊誌なんて単語聞くとは思わなかったなー。その例えはどうなのよ」

「うっ……確かにあまり似つかわしくはなかったですね……」

「だいたい、週刊誌読んでる子なんて聖應にいないんじゃないの?」

 薫子さんの云う通り、内容をしっかり把握出来ない例えは例えとして成立していない。例えとは本来、物事をわかりやすく説明するための手法なのだから。改めて思い直してみれば、世俗的な事を扱っている印象のある週刊誌なんて、ここではほとんど馴染みの無いものだろう。だからこそ僕の今の感覚としてはピッタリだったのだけれど。

「まあでも、云いたいことはなんとなく解ったかな。要はあれでしょ。エルダーとしては憧れの視線で、今回のはちょっとスキャンダラスっぽいっていう」

「そうですね、まさにそういった心境です。純粋な好奇心よりも事件性からくる野次馬的な視線と云いますか……。それにしても自分で否定しておきながら週刊誌で通じるなんて、薫子さん……」

「うぐっ……悪かったわね。どうせあたしはお嬢様学院の生徒らしくないわよ。でも云っとくけどあたしだって週刊誌読んだことあるわけじゃないんだからね。なんとなくのイメージよ、イメージ!」

「ふふ、ええ。解ってます。すみません、ちょっと意地悪でしたね」

「もう、相っ変わらず千早は性格悪いよね」

 ぷいっとそっぽを向きながら可愛らしく頬を膨らませてむくれる薫子さん。そんな彼女との遣り取りで少し気分が上向いた。薫子さんには悪かったけれど、それでも声を掛けてもらえて良かった。

 最後は冗談めかしてしまって悪い事をしたかなと思いつつ、普段自分のことを頭が悪いと公言している薫子さんだけれど、やはり頭の回転は良い。こちらの云いたいことをしっかり汲み取ってくれる。きちんと相手の立場を思い遣って、その上で真っ直ぐに対応してきてくれる。きっと、それは薫子さんの生来の優しさなのだろう。

「まあでも、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな。ただの噂なんだし。それに千早は普段の素行に問題あるわけじゃないんだから、すぐ消えるでしょ」

「そうだといいのですけれど……」

 楽観的な薫子さんの意見だったけれど、確かに今はどうすることも出来ないのだから気にし過ぎて考え込むよりはいいのかもしれない。僕が気にしていればそれだけ周りの人にも心配を掛けてしまう。それに、殊更に否定しても却って興味を引いてしまうだけだろう。

 そんな風に気持ちを切り替えはしたのだけれど、この噂は思いの外長引くことになった。