<序章>
断続的な地鳴りが響いている。
まるで余震がひたすらに続いているかのような細かな振動。
大地や空気を振るわせる圧倒的な存在感の――震源地とも言うべき塊が、遙か遠方にざわざわと蠢いている。
眼前の平野いっぱいに広がる黒い群れの中にいくつもの旗がそびえ立っており、気の弱い者ならばその光景だけで腰を抜かしているかもしれない。
濃い橙の布地に四つに分割された菱形。敵方が掲げるその家紋の旗は、畏怖の象徴としてJAPAN全土に広く知れ渡っている。
四つ割菱、または武田菱とも呼ばれるその家紋は――言うまでもなく、圧倒的武力によって領地拡大を目指す野心に満ちた武田家の家紋だ。
戦場で出逢ったが最期、相対した軍は残らず蹂躙されると言われている。
事実、我が上杉軍も幾度か交戦したこともあったが、その度に苦汁を舐めさせられてきた。そんな最悪の敵、武田の軍勢が約一万五千。その半数は武田の虎の子ともいうべき『てばさき』の部隊だ。こちらが陣取った小高い丘からは、視界の広さ故にその威容が余すことなく伝わってくる。
(よくもまぁあれだけの数を送り込んできたものだわ)
並の砦程度であれば一瞬で蹂躙出来るであろう数。それだけで相手がどれほどこの一戦を重要視しているかが解る。
(恐らく、この前の一戦。あれが相手の尻に火を点けてしまったのね……)
暗澹たる気持ちを抱えながらも冷静に相手方の心理を分析する。
およそ負け戦というものと縁遠い、圧倒的な武力を誇った武田軍。長らく上杉軍も交戦してきた相手ではあるが、両軍の実力は五分と五分――いや、領土の広さから来る兵数や兵糧、それ故の持久力等を鑑みれば武田軍の方が僅かに勝っていたと言えるだろう。そこを補い、対等に渡りあえてこられたのは偏に上杉軍の一人ひとりの練度と軍神の存在だった。JAPANでも数少ない、武田相手に黒星を与えてきた上杉。
そんな、今まで曲がりなりにも五分に渡り合ってきた私達が、ついこの前の一戦で圧勝してしまった。私の作戦が予想以上にうまく嵌ってしまっただけ、なのだけれど……。戦を左右する天秤が何かの切欠でこちら側に大きく傾いてしまっただけ。ただそれだけだった。両者の実力から言えば不自然とすら取れるような大差での勝利。
それが、武田を本気にさせた。
相手にしてみれば、自然だろうが不自然だろうが、黒星を付けられたことに変わりはない。それも、これ以上染まらぬというほどの真っ黒な星。なまじ自分達の軍勢に自信を持っているからこそ、矜持が許さなかったのだろう。その誇りを取り戻すべく、圧倒的な物量を以て此度の戦に臨んだ――。
――ゴクリ。
思索の海から浮上すると同時に、息を飲む音が聞こえた。
生唾を飲み込むような音が聞こえるということは、近くにいる近衛の誰かだろうか。
(それも無理からぬ光景よね)
声には出さず、心の中でそっとひとりごちる。
対武田軍に限らず、今まで幾度となく窮地を乗り切ってきた上杉ではあるけれど。しかし目の前の圧倒的な物量は流石に軍神を抱える我が軍にとってさえ、気後れする程の高い壁。その壁を目前にして、緊張するなと言う方が無理だろう。そのことについて咎めるつもりはない――ないが、そのせいで実力を発揮し切れないのではないか。そのことが少し不安ではある。
一騎当千の者が揃う上杉の兵達をも震え上がらせる此度の戦。
だが、逆に言えば――
「それだけ脅威に思われているってことかしらね」
今度はぽつりと、声に出して言う。
――後ろ向きな言葉は口にするべからず。自信を持たすべき言葉は噛み締めさせるように口にすべし。
「愛様っ……!」
はっと気がついたようにすぐ背後に居た近衛隊長が私の名を呼んだ。その顔が緊張の色から自信に満ちた色へと変わっていくのが解る。「これほどの軍勢を率いねば上杉は討ち滅ぼせない」と、先ほどの私の言葉が彼女の中でそう変換されたのだろう。
元々上杉は少数精鋭の国だ。それ故に、兵達も自分の腕に自信を持っている。無理に大声を上げて鼓舞をせず、その自信を少しつついてやるだけで、彼女らはその能力を十全に発揮してくれる。
「相手がどのような軍勢であろうと蹴散らすのみだ」
近衛隊長の言葉に続いて、隣に並び立つ総大将――上杉家国主の謙信が静かに、しかし迷い無く言い切った。
「あー、はいはい。血気盛んなのは結構だけど、あれを退けるのは流石に骨ですよ」
「策は愛に任せる」
まったくもう……簡単に言ってくれるわ。確かに少し冗談交じりで軽く「骨だ」とは言ったけれど、余裕なんてあるわけじゃない。
武田は間違いなくJAPANでも屈指の強国。その軍勢を相手にして簡単に運ぶ戦などあろうはずがない。この前の一戦はそれこそ奇跡のような幸運が味方しただけなのだし。
一万五千もの軍勢――対するこちらの戦力は僅かに三千。
「戦力差は五倍……ね」
噛み締めるように、現実をしっかりと認識するように言葉を紡ぐ。
もはや絶望的な差とも言える彼我の戦力。
何も考えていなさそうな無表情でぬぼーっと隣に立つこの娘は、その差をひっくり返すのがどんなに至難か解って言っているのかしら?
(まぁ……解ってても気にはしないでしょうけどね……)
謙信は戦馬鹿なのではない。
為すべき己の信念に対して引くことを知らないだけなのだ。
だからこそ、皆彼女に付いて行く。いかなる時もぶれぬ彼女の正義は戦乱の世における光明だ。
だからこそ、この戦力差が判明したとて逃げ出す者は誰一人としていなかった。絶対的な信頼を寄せられている軍神。
そして、そんな彼女は私ならそれをひっくり返す策を出してくると信じて疑っていない。
(その信頼は素直に嬉しいけどね)
その期待に応えたいと思う。応えねばとも思う。けれど、私の策に皆の命運が懸かっていると思うと、不安な気持ちは消えない。
そんな、少し弱気な気分が鎌首をもたげ始めた時――
「愛の策ならば、命を預けることに微塵の躊躇いも無い」
「……っ」
謙信の一言が不意を突いて心の隅を穿ってきた。
私の心の声が聞こえたわけもないだろうが、なんて時機で言ってくるのか。
どこまでも真っ直ぐで。どこまでも純粋な顔を向けて。
何気ない――何の飾り気もないその一言が私の不安を消し飛ばした。
「私も、謙信の力を信じてますよ」
お互いが寄せる揺るぎ無い信頼。
幼少の頃より編まれたこの絆は、絶望的な戦場を前にしてもなお一層固い。その事実が、私の心に尽きることなき勇気を与えてくれる。ふっと笑みを浮かべて、同じ気持ちだろう謙信の方を見遣る。
彼女にしては珍しく、どこか遠くを眺めて柔らかな微笑を湛えていた。
「このような場面で不謹慎だが……昔を思い出してしまった」
「昔、ですか?」
「愛と初めて協力し合った時のことだ」
「……、それはまた随分と昔のことを」
確かに、どこか懐かしむような表情だなとは思ったけれど。まさかそんな昔のことを思い出していたなんて。謙信に続いて自分も、心の奥にしまってある――けれど色褪せぬ大切な記憶を呼び起こす。
「あの時も――愛と駆けたあの戦場も、このような圧倒的な劣勢だったものだな……」
「確かに。あの時と似た部分もありますね。戦力差がちょうど五倍なところとか」
「うむ」
「まぁ、あの時とは規模があまりにも違いますが」
「同じだよ。どのような戦であろうと、愛と共に駆ける戦場で我らに敗北は無い」
…………本当に、この主は。
特に考えがあって発したわけではないだろうに。それでも私が望む時に、欲しい言葉をくれる。謙信がくれたその一言で、私の中にあった一末の不安は消し飛んだ。
「どうやら私も少しばかり弱気になっていたようです」
「………………」
ちらり、と謙信が怪訝な顔をこちらに向ける。私を見つめるその双眸には案ずる色があった。
「大丈夫ですよ。そんなに不安そうな眼で見ないで下さい。今の言葉で吹っ切れました」
安心させるように、普段よりも柔らかな微笑みを乗せて返す。それでも若干煮え切らない表情の謙信を脇目に、私は眼下に広がる光景を真っ直ぐに見つめる。
「私も思い出したんです。この主に付いて行くと誓った、あの日を」
「…………そうか」
「あの時も、ちょうどこれくらいの季節でした」
一陣の風が戦場を駆け抜けた。
私の髪を揺らしていったその風は、幾分乾いていて、より強く昔を思い出させる。
夏も終わり、次の季節を告げる乾いた風。郷愁を呼び起こす、秋風。
木々が赤く燃え出す時期。
私と謙信が初めて出逢った、秋――。