甘き日に咲く雪花 〜Valentine's bitter chocolate〜
「ふぁ…………っと」
起床から数時間経っているというのにぼうっとした感覚が頭から抜けず、不意に欠伸が出る。どうも気が緩んでしまっているなと思いつつ、さっと手を当てて隠したのだけれど、どうやら隣を歩く薫子さんにはバッチリと見られていたようだ。
「珍しいね、千早が欠伸なんて」
「ええ……少々夜更かしが過ぎてしまったようです」
心底意外だと云わんばかりの顔を向けてくる薫子さんを尻目に、少しばかり背筋を正す。そんなに珍しかっただろうかと考えて――確かに自室以外で欠伸を晒すような真似はしたことがなかったなと思い至る。
今回はそれだけ無理をしすぎてしまったということなのだろう。
このままではいつまた醜態を晒すとも限らないので、気持ち大きめに深呼吸をした。
冬の朝特有の刺すような空気が肺の奥まで満ちてゆく。熱を奪われた胸の中とは反するように、巡りの良くなった血行が体を徐々に温めていく。
幾度か繰り返すうちに頭にも充分血が行き渡ってくれたようで、随分と意識が明瞭になった。そのおかげで低空を漂っていた気分も数分前よりはだいぶましになっている。
「……ふう。ここがまだ寮の近くで良かったです」
「そうだねー。エルダー様の大欠伸なんて、他の子たちに見せられないもんね」
「それはそうですけれど……云うほど大欠伸でも無かったでしょう」
「いやいや〜。普段、優雅な振る舞いをしてらっしゃる白銀の姫君からしたら充分に大
欠伸だったでしょうに」
「うっ……なんだか最近、薫子さんがだんだん意地悪くなってきたように思いますよ」
はあ、とひとつ溜息をつく。
まあそれでも、本当にここが桜並木に入る前だったというのは不幸中の幸いだったの
かもしれない。学院の玄関への直通路であるあそこは、生徒全員が合流する通学路でもあるわけだから、多くの人達に見られていた可能性もあったわけだし。そうでなくても今日はいつも以上に賑わっているはずなのだから。
とは云っても、まさか薫子さんにこんな反撃を貰うとは思ってもいなかった。最初の頃の初々しい反応だった彼女はどこへやら、良くも悪くも――今の僕にとっては悪いと云うべきなのだろうけれど――普段の遣り取りに慣れてしまったということなのだろう。
(それもそうか。一年近くも繰り返していたんだから……)
季節は二月も半ば。
幾百と繰り返したこの登校風景も、もう、ひと月と経たずに見られなくなるのかと思うと一抹の寂しさが胸をよぎる。
次々と浮かんでは消える想い出。パラパラと聖應での日々を収めたアルバムを頭の中で捲ってゆく。エルダー選挙や体育祭、創造祭に降誕祭といった主立った行事から、日常のひとコマまで様々な光景が脳裏をよぎる。長いようで短かった一年あまりを回想しながら歩いていると、にわかに前方が騒がしくなっていたことに気付く。
現実へと戻った意識に反応してピクリと体が動く。同時に、手に持っていたいくつもの大きな紙袋がガサリと音を連ねた。
薫子さんとは別の意味で僕の身体にも慣れというものが染みついている。一握りの人達しか知らない男性≠ニしての姿。聖應で過ごす女性≠ニしての姿。半ば条件反射のように切り替わる振る舞い。
その切り替えと時を同じくして前方から声があがる。
まさしく先程危惧していた、寮から桜並木へと道が繋がる場所に数名の女生徒達が待ち構えていた。
「あっ。エルダーのお二人ですわ!」
「まあ、本当に。今日もなんてお美しいのでしょう」
「わ、わたくし緊張してまいりました」
「受け取って下さるかしら……」
最初にこちらに気づいた生徒が声を上げるや否や、瞬く間に大きくなるざわめき。周囲へと伝播していくその波は、やがて大きなうねりとなって、こちらへと注がれる。
「なんだか、いつもより熱気がすごいような……」
「そりゃあ今日はヴァレンタインデーですから? 千早、今朝云ったことちゃんと覚えて
るでしょうね?」
「え、ええ……まあ。受け取ったらすぐに袋に入れて、長々とお礼を云わない、でしたっ
け?」
「そうそう。いい? これはスピード勝負だからね」
ふん、と乙女としてあるまじき気合の入れ方をする薫子さんは、まるで戦に臨む武将のような表情を湛えていた。
「でも、良いのでしょうか。せっかく皆さんから手渡していただくのに、そんな機械的に受け取っていくだけなんて――」
「甘いわ! そりゃあ男である千早からしたら嬉しいっていうのが大きいんでしょうけど? でも今はエルダーなんだからね。それに、毎年恒例になってるからみんなも解ってるわよ、エルダーがチョコレートを貰うだけでも大変だって」
「はあ……そういうものでしょうか」
「そういうものなの。いい? とにかく受け取ったらすぐに袋へ入れて次、袋へ入れて次、よ!」
「解りました」
意気込む薫子さんに返事をしたものの、正直内心ではそこまでだろうか、と半信半疑だった――のだけれど、
「お姉さま! ご、ごきげんよう。受け取って下さい!」
「私のも受け取っていただけますかっ」
「あ、あ、あの私のも……」
「抜け駆けなんてずるいです。私のも!」
「えっ、あ……ありがとう、ござい、ます」
ひとりから声を掛けられた瞬間、ちょっと引いてしまうくらい同じタイミングで周囲の目がいっせいにこちらへと向けられた。
そこから後は本当に一瞬の出来事で、気付けばいくつものチョコレートを抱え持っていて、お礼の言葉を返すどころか受け取るだけで精一杯の有様だ。
一つ受け取った後に三つ同時に渡され、手では持てなくなって腕で抱え始めたらどんどんと乗せられて、落とさないようにと気を使い始めた頃には目の前が見えなくなるほどに積まれていた。
「ほら千早! さっさと袋にしまう!」
「は、はい……!」
もはやいつもの態度を装う余裕もなく、薫子さんに促されるままなんとか両手いっぱいのチョコレートを袋へと詰める。
(朝、いくつも袋を手渡されたのはこういうことだったのか……)
碌な説明もなく、ただ渡されるままに受け取った大量の紙袋だったけれど、ようやく合点がいった。確かにこれほどの勢いで渡されてしまっては袋がいくつあっても足りないだろう。
しかも――恐らくこれはまだまだ序の口に過ぎないのだろう。ここは校門にほど近い場所で、並木道の入り口もいいところ。これから長いこの道を進む先で一体どれほどの生徒が待ち受けているのかと考えるだけで頭が痛くなってくる。そして、教室に辿り着くまでに受け取るであろうチョコレートの量を思うと、気のせいだと解りつつも腕に軽い疲労感を覚えてしまう。
改めてエルダーの特別性を感じる。
せめて先に説明しておいてくれれば僕にだって心構えが出来ていただろうに。
そう思ったものの――
(……無理だっただろうな)
もはやこれは事前の心構えなど軽く吹き飛ばすほどの光景だ。僕はまだ、心のどこかでこの学院の風習を甘く見ていた部分があったのだろう。
頬を染め、恥じらいながら綺麗にラッピングされたチョコレートを渡してくる――そんな蜂蜜のような情景を心の隅で期待してしまっていたのかもしれない。
「千早お姉さま!」
「これ、有名なお店のなんです。どうか――」
「大人っぽいお姉さまにはビターなのが似合うと思います!」
「一生懸命作りました……」
「お姉さま!」
「千早様!」
実際はこういうわけなんだけれど……。
「千早、行くよ! ぼさぼさっとしない!」
「は、はい。待って下さい、薫子さん」
なんだかいつもと立場が逆転しているような気もするけれど、流石にここは僕よりも長く聖應にいる薫子さんに一日の長があるようだ。今までのエルダーを見てきているのだろうし――何よりお姉さまがエルダーだったのだから、誰よりも間近で見ていただろう――恐らく、去年もエルダーではなかったにしても騎士の君としてかなりの数のチョコレートを貰っていただろうから、多少慣れてはいるのだと思う。
「……っとと」
そんなことを考えていたせいか、今やパンパンに膨れあがった袋を両手に提げていたものだから気を抜くと少しよろめいてしまう。僕でこれなのだから薫子さんは大丈夫なのだろうかと、先を行く彼女の方に視線を遣った時だった。
「雪ちゃん……?」
ちらりと視界に映った金の影。
見間違えようはずもない特徴的な髪の色。僕と並んでこの学院で最も目立つ容姿。
いや、そんな特徴なんかなくても気付いていたはずだ。
活発で、負けず嫌いで、少し甘えん坊な雪ちゃん。
その姿が一瞬ちらりと見え、すぐに人垣の中へと消えていってしまった。
どうしたのだろう。普段なら登校途中に姿を見掛ければ声を掛けてきてくれるのに。こんな状態だから遠慮したのだろうか?
けれど、気に掛かったのはそのことよりも消える間際の雪ちゃんの表情。怒っているような、寂しそうな、いつもの彼女からは遠い――髪の色の如く明るい彼女の性格とは反対の、暗く鈍い感情とでも云うべきか。
流石にそこまでは云い過ぎかと思うものの、どうしてか気になって仕方がなかった。
「千早さーん! 行くわよー!」
「はい、ただいま」
もう随分と先へ行ってしまった薫子さんが声をあげる。言葉遣いは丁寧でも、そうやって声を張り上げるのはいかがなものかと……。
雪ちゃんのことは気になるけれど、姿も見えなくなってしまったし、今は無事教室まで辿り着くことに専念しなければ到底切り抜けられそうにない。
雪ちゃんには後で直接逢いに行こう。
そう僅かな決意を胸に、玄関まで続く人波に向かって歩き出した。
◆
どうしてだろう――。
「もう、千早ってばっ」
自然と悪態が口をついて出る。
でも本当はこんな陰口みたいな言い方は好きじゃない。前はもっと面と向かってずけずけと云っていたんだから、さっきだって構わず云えば良かったんだ。
「――って、云えるわけないじゃない!」
流石に私でもあんなにも大勢の人がいる中で云う勇気はない。
そう、大勢。
いつものように多くの人達に囲まれていた千早。
今日に限って云えばいつも以上、かな。当然だけれど。
エルダーなんだし、そんなことは解りきってるのに。
だったら、どうしてだろう――。
千早の姿を見た瞬間、逃げるように彼の前から去っていた。
ううん……見たから≠カゃない。きっと、改めて理解してしまった≠ゥら。
千早はエルダーなんだって。
私だけじゃなくて、みんなからも好かれてるんだって。
あの光景を見れば、嫌でも実感する。そして、そんな人達の――取り囲むようなその他大勢のうちの一人として埋もれてしまうんじゃないかという不安に襲われたんだ。
ふと湧き上がってしまったその感情は、違うと解っていても否応なく私の心の中を荒らしていった。
結局、どんな顔をして千早に逢えばいいのか解らなくなってしまって、逃げ出してきたんだ。
千早が私のことを他の――こんな云い方はあれだけど、名前も知らないような人達と同じように見るとは思わない。それは、うぬぼれとか自意識過剰とかそんなんじゃなくて――だって、その、千早と私は……。
「ぅぁ……。言葉にするとすごい恥ずかしい。……恥ずかしい、けど。――恋人、なんだよね」
そう。だから、私は特別なんだっていうこの想いは誇ったっていいはずだよね?
千早の正体を知っている数少ない人のひとりだから。綺麗で優しいエルダーという側面だけじゃなくて、かっこよくて頼りがいのある男性としての側面だって知ってる。
優越感って云うのかな。あまり良いイメージは湧かないけれど、確かにそういう部分も持ち合わせているんだろう、この感情は。
だけど……
「ねえ、千早――」
他の子よりずっと特別な位置にいるのにぎゅっと胸が締め付けられる。
「なんだか、辛いよ……」
最初のむかむかとしていた気持ちはいつの間にかどこかへいってしまってた。代わり
に胸の中で広がったのは、霧のように纏わり付く不安だった。
「何やってるんだろう」
コツンと、下駄箱に軽く頭を当てる。知恵熱でも出ていたかのように火照った額に、スチールの冷たい感触が心地よかった。
前から千早は人気者だったじゃない。イベント事の度に囲まれる光景を見るのも初めてじゃない。だから、こんなにも気にしてしまう今日の自分がおかしいんだ。
基督系の学院でこういう云い方もどうかと思うけれど、それこそ念仏のようにその言葉を繰り返し唱える。
そのうちにだんだんと悩んでいたことよりも言葉を繰り返すことが目的になっていって、幾らか気分は紛れた気がする。
しばらくこうしてぼうっとしていたかったけれど、何やら玄関口が騒がしくなってきた。
どうやら大人気のエルダー様達が並木道を通り抜けてきて、ようやくここまで来たらしい。こんな言い方ちょっと意地悪かな。
「あーっ。だめだめ! こんなのじゃいけないよね。切り替えていかなくっちゃ」
確かに色々思うところはあるけれど、いつまでもぐじぐじしてるのは私の性分じゃない。
とは云っても、今すぐに千早と顔を合わせるのもなんとなく気まずいところもあるんだよね。
(もうちょっとだけ、冷静になる時間ちょうだいね)
千早へなのか、それとも自分自身へなのか。少しだけ言い訳じみた言葉を投げ掛け
て教室へ向かう。その足が三歩進んだ時だった。
「雪ちゃん」
背後から掛けられた声に振り向く。
「うたちゃん……」
そこにはいつもと変わらない楚々とした佇まいで、うたちゃんが立っていた。
背中まで届く黒髪に、落ち着き払った雰囲気は御前≠フ二つ名で呼ばれるだけはある。それでも今年に入ってからは、去年の時みたいにどこか達観したようなところは鳴りを潜めていて、随分と親しみやすくなったともっぱらの評判だった。
それというのも、どうやら千早のおかげらしい。確かに時期的にはうたちゃんが変わったのと被るし、本人が公言して憚らないのだから間違いないのだろうけれど、一体どんなマジックを使ったのだろう。
「何やら浮かない顔ですね」
「そ、そうかな?」
「ええ。気もそぞろ、という感じでしたよ」
「おかしいな。うたちゃんのことを考えてたんだけど」
「私が云っているのは、その前のことです。声を掛けるまでは今より表情が硬かったですから」
「うっ……相変わらずよく見てるなあ、うたちゃんは」
図星を指されたことと、情けない姿を見られていたことに言葉を詰まらせてしまう。
もう、格好悪いなあ……。
「千早お姉さまのこと、ですか?」
「うー……うたちゃんには隠してもしょうがないよね。うん。そうなんだ」
「ふふ、相変わらず仲が良くて羨ましいです」
「もう。さっき自分で浮かない顔って云ってたのに、どうしてそこまで解ってて羨ましいなんて云うのかなー」
ぷくりとちょっとだけ頬を膨らませて抗議の意を示す。だけど、仲が良いと云われてどこか嬉しさを感じてしまっている部分もあって、それ以上何かを云うことは出来なかった。
「そのように一喜一憂するのも、好いた相手がいてこそですよ」
「それは、……そうなんだろうけどさ」
「それでも何かに悩んでいて、私で力になることがあればなんでも云って下さいね。雪ち
ゃんの悩みは私の悩みです」
「うたちゃん……」
云ってしまうべきなのか、少しだけ迷った。
こんな些細なこと、相談してしまっていいんだろうか。きっとこれは一過性のもので、それに恐らく――惚気に近いものだ。そんなこと、相談された側からしたらどうなんだろうと考えると、最後の一歩が躊躇われる。きっとうたちゃんなら喜んで力になってくれるのだろう――ううん、千早のことが大好きなうたちゃんだからこそ、話すことを悩んでしまうんだと思う。
でも、そんな私の逡巡は当の本人によって破られた。
「私のことは気にしないで下さい。千早お姉さまのことはお慕いしてますが、それ以上にお二人の幸せの方が、私にとっては重要ですから」
そう云ってにこりと、皆の前で見せる御前≠ニしてではなく、友人の哘雅楽乃としての笑顔があった。
「うたちゃん……うん。……それじゃあ甘えちゃおうかな。ふふ、御前≠ニしてのお力拝見、かな」
眩しいくらいに親愛の気持ちを乗せている笑み。見ているとなんだか気恥ずかしくなって、ちょっとだけひねた云い方をしてしまった。
けれど、私のそんな物云いも心得ていたようで「まあ」と目を見開いたのもそこそこに、すぐに悪戯な笑顔を乗せて、
「では、ご意見番としての力、お見せしましょうか」
と、頼もしい言葉を投げてきた。
むー、流石は御前≠セ、一筋縄ではいかないらしい。